リリリ(ふつうエッセイ #399)

折口信夫の著書に『古代研究』というものがある。

ちょうどEテレ「100分 de 名著」で取り上げられていて、興味深く折口の考察について学んでいたところ。折口が考える「古代」とは何なのか。そういったいくつかの問いを皮切りに、日本について、あれやこれやと考えている。

日本について、僕は知っているようで何も知らない。

なぜ日本にはこれほど多くの寺院があるのだろうか。能や歌舞伎などの伝統芸能が今なお受け継がれているのはなぜだろうか。死者の死を悼む理由は何だろうか。また盆などのタイミングで、死者を迎えようとする試みにどんな意味があるのだろうか。

例えば僕たちは、正月に初詣を行なう。初詣に行かない人ももちろんいるけれど、年始早々からしばらくは初詣で人が賑わう。なぜだろうか。「とりあえず行こう」という感覚もあるだろうけれど、その「とりあえず」が脈々と受け継がれている。その根本には、どんな心理があるのだろう

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折口の古代研究に関わらず、世の中の研究者といわれている人たちは、自身の研究領域において様々な問いを持ちながら、日々熱心に研究に励んでいる。研究は英訳するとstudyやresearchとされるが、そういえばsearch(調べる)でなくresearch(調査・研究する)であるニュアンスって、何なのだろうか。

reには、reunionやrewriteなど、「再び〜する」というニュアンスが込められている。それが強調を示す接頭辞にもなるそうだ。searchを繰り返し、繰り返し、何度も続けていくことで、searchよりももっと広く深く、searchするという意味が込められているのだ。

なるほど、そうなると先ほど挙げた再会を意味するreunionも、単に再び会うことだけではないのかもしれない。再び会うことによって、関係性を深めること。それがたとえ10年ぶり、20年ぶりの出会いだったとしても、いや、出会いだからこそ、時間を経過しての出会いに価値や意義があるのだ。

かつてショートメールのやり取りをするとき、タイトルに表示される「Re:」を消すという文化が流行った。これを消さずに「Re: Re: Re:」と続ける人が、「ReReReおじさん」と揶揄されていた。(若者にとって、年配の人とは全く想像もできない存在だったのだろう)

これまで挙げてきた強調の例に倣えば、「ReReReおじさん」は、関係性を大事に頑張ってメールを送っていたのかもしれない。

その件名は、おじさんなりの努力の証。

当時、僕も周囲に倣って消していた「Re: Re: Re:」はどこに行ってしまったのか。そのツケがきていないことを、“repray”したい。