忘れ物(ふつうエッセイ #414)

家から、それほど離れていない保育園に息子は通っている。

保育園の持ち物は、多い。特に月曜日は、寝具系の持ち物も加わり、それなりの荷物を抱えながら保育園に向かうことになる。

……という若干の言い訳を挟んでいることで、勘の良い読者はお気付きだろう。今日、僕は忘れ物をした。荷物を詰めていたのは妻ではなく、僕だ。だから100%僕の過失である。

一度自宅に帰り、自転車に乗って、忘れ物を届ける。保育士さんも慣れたもので「わざわざ、ありがとうございます」と受け取ってくれた。

しかし、世の中に数多「届ける」べきものがある中で、それが「忘れ物」というのはなかなか示唆に富む選択肢ではないだろうか。

忘れ物。忘れたもの。本来は届けることができなかったもの。

実際に、「忘れ物」という言葉はメタファーとしても使われる。前年度、甲子園で準優勝した高校球児が、「甲子園の忘れ物、取りに行こう!」なんて言葉を掛け合ったら、それは物語になる。優勝できなかったことが、果たして「忘れ物」なのかどうかはさておき、雪辱を果たそうと努力しているんだなあと頷いてしまう。

過去に得られるはずだったもの。それを掬い上げることができなかった。過去にずっと置き去りにされている、ものやこと。あるいは言葉。

それらを「忘れ物」と名付けることで、あたかも「取りに行ける」と錯覚することができるのだ。

忘れ物を、保育園に届けた。だが確実に失ったものもある。時間だ。たかが5〜10分に過ぎないけれど、この時間で達成できたこともあっただろう。

失った、という表現はいささかフェアではない。でも、とりあえず「失った」としておこう。

失った?失ったものを、取りに行くことはできるだろうか。忘れ物と見做すことはできないだろうか。その忘れ物を、近い将来、時間をかけて取りに行く。壮大なタイムロンダリングの物語。その積み重ねで、人は一生を終えるのだろう。

結論を言おう。

忘れ物には、気をつけましょう。