自転車のペダルをゆっくり漕ぐ(ふつうエッセイ #371)

中秋の名月がばっちりと見えた昨夜。

余韻が残る日曜日の朝、少しだけ早起きして、自転車に乗って街に出掛けた。9月中旬の朝は、肌寒い。だけど力いっぱいペダルを漕ぐと、いつものように汗をかくだろう。どこに急ぐわけでもないので、最低限の力だけをこめて、ゆっくりとペダルを漕いだ。

下り坂では漕ぐのを止めて、するするっと重力に身を任せてみる。背後から何台もの自動車に抜かれたけれど、気にすることはない。目的地はあれど、なにかを獲得するために街へ出たわけではないからだ。

そりゃ、お金もほしい。名声だって、ないよりはあった方が良いだろう。だけど僕が本当にほしいものはなんだろうか。

ここには書かないけれど、答えは出ている。その答えを、僕はときどき忘れてしまう。そのために働いて、自由になって、色々なものを見て回るのだ。

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いつ僕は死ぬのだろう。

僕は運命というものを信じていないから、この先の未来は(たとえ1分先だって)、なにも決められていないと思っている。つまり基本的には、自分次第なのだ。

でも、いくら節制して生きていても、免れない死だって存在する。横断歩道で誰かに刺されるかもしれない。暴走した車が僕をはねるかもしれない。思いがけず病魔が僕に襲いかかるかもしれない。

でも、なににも追われず、こうして文章をタイプしている時間は幸せだ。テラス席で、ぼんやり人の流れを眺めて、なにを書こうかと思案する。良い時間だ。

21年前の今日、ニューヨークで信じられないテロが発生した。テレビでは、「その瞬間」の映像が何度も流れた。いや正確にいうと、両親はテレビをなるべく観ないようにさせていたから、映画「サイン」のように何度も何度も繰り返してテレビを眺めていたわけではない。

でも、そのときの映像は、鮮明に僕の記憶に刻まれている。

21年前は、高校生だった。あの事件の余波を受けて、僕の高校の修学旅行先は沖縄から京都へと変更になった。「なんでそこまで」と当時は憤ったけれど、いま思えば仕方ない判断だったと納得できる。

どうしたって、あの時代に戻れやしない。時間は不可逆だ。この文章を打っていた1分前にさえ、戻ることはできない。

時間はどんどん進んでいく。それはあらゆる可能性を持っているけれど、なにかに出会う確率を狭めていくものでもある。

かといって、それを恐れてはいけないと僕は思うのだ。「時短」的な態度を加速しようとして、合理性を求めていると痛い目に遭うことを経験的に学んでいる。生物は、生物そのものの進化において、必ずしも合理的な選択だけをしてきたわけではない。「なんで、こんな非合理な進化を!」と思われることも散見されるけれど、長い時間軸と、周囲の生物との共生の中で育まれた知恵なのだと僕は思っている(思いたい)。

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そんなことを考えていると、つい筆を置くタイミングを見失ってしまう。

文章を書くプロなら、ちゃんと「オチ」も考えないといけないのだろう。でも今日は、特別に「オチ」のない文章も自分に許すことにする。

許す、赦す。

多くの人にとって、今日が許(赦)される日でありますように。