夏休みの宿題(ふつうエッセイ #266)

小学生のとき、自由研究や作文のような宿題は別にして、夏休みの宿題は7月中には終わらせていた。

だから「夏休み最後になって慌てて宿題をやる」という、よくあるバタバタ劇はあまりピンと来ない。

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夏休みの宿題は、普段学校から課せられる宿題より楽しかった。例えばドリルのようなもの。「1冊やってきてください」というものだが、いつもと違う完結型の教材で、やり切る達成感を味わえた。

「近所の公園のラジオ体操に行く」という宿題もあった。ラジオ体操に参加するだけで、スタンプを押してもらえる。スタンプを集めたいという一心で、早起きも苦じゃなかった。

「夏休み」は、期間設定が分かりやすい。

普段の生活では、週末とか月末とかでしか時間を意識しないけれど、夏休みには明確に始まりと終わりがある。期間内で、どれだけ楽しめるかを考えたし、親も付き合ってくれたと思う。(いうても親は仕事があったのだけど)

夏休みの宿題が楽しく感じられたのは、休みと宿題のバランスが良かったのかもしれない。「休み」が前提にあり、宿題がアドオンされているという関係だ。

大人になったとて、休みが前提にあるべきだとは思う。何となく仕事中心の世の中になっている気がするが、どうも惰性で自由が縛られているような気がしてならない。

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……うーん、でも、別にそれでも構わないのかもしれないな。

夏休みは、1年のうちの特別な期間だ。この期間があるから、1年を頑張れるという人もいて。毎日夏休みだったら、それは「夏休み」として機能しない。夏休みだからこそ、山にも海にも行ける。スイカだって食べられるのだ。(おまけに僕は、8月に誕生日がある)

毎日が夏休みってのは理想だけど、もしそれが実現したら、夏休みは味気ないものに変わってしまうかもしれない。会社を大金でバイアウトした経営者が、翌日から「何もやることがない」状態になって愕然とするように。

そう考えると、夏休み以外にやっていた、音読とか計算ドリルとかも大事だったのかも。結論が出ず、日々の生活が大事という現在地に戻ってきてしまった。

あっちにいったりこっちにいったり。初夏の訪れに、少しだけ気分が高揚しているようだ。全部、夏のせいにできる季節が、いよいよやってきたことを実感する。