人の進退を笑うな(ふつうエッセイ #163)

どうやら、北京でオリンピックが開催されているらしい。

大金をはたいて、2008年に北京五輪を観戦に行った身としては信じられないが、僕の関心ごとから「オリンピック」は外れてしまった。

それでも、普通に暮らしていれば、否が応でも五輪の話題は耳に入る。

リアルタイムで観戦しないにせよ、平野歩夢さんのスノーボード・ハーフパイプは見事だった。常軌を逸するほどの美しい舞、あんなに高く跳躍して、彼は何を考えながら演技しているんだろうか。

凡人だからこそ、彼の胸の内を覗きたくなる。

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それはさておき、辟易とするのはマスメディアによるアスリートへの進退確認の取材だ。

率直に言って、失礼ではないだろうか。

羽生結弦さん、高梨沙羅さんは、本人からすれば不本意な成績だったかもしれない。将来のスター候補となる若い選手も出現する中で、ある側面からすればピークを超えたと言っても差し支えないだろう。(僕のような凡人が決めつけるべきではないが)

しかし、進退なんて本人が決めれば良い。

どうしても、誰もがオリンピックを目指して競技を続けてきたと思うのだろうか。アスリートには、競技そのものに向き合える喜びが大前提としてあったはずで。たまたまオリンピックという機会が設けられていて、鍛錬の成果を見せているに過ぎない。

もちろんプロスポーツであれば、報酬なども発生しているだろう。ある意味で公共性が高い営みであることは認めるが、だからといって、進退に関する意思決定を公に晒す理由にはならないのではないだろうか。

「オリンピックが最後のレース」と自ら位置付け、そして半年後に引退を撤回した大迫傑さん。彼の意思決定には「自分」を感じるし、その決断に対して誰にも文句を言わせないという凄みさえ持ち合わせている。

大迫さんのように、全てのアスリートが、自ら進退を決断する自由を持っている。その決断のタイミングは人それぞれだ。

競技後に、ゆっくり温泉に浸かり、あーだこーだと競技を振り返る。試合直後は引退を決めていた人が、ゆっくり考えた結果、「もうちょっと続けてみようか」なんて思うことだって、十分あり得るだろう。

燃え尽きて緊張の糸が切れるなんてこともあるけれど、切れたまま競技を続けたって構わない。ある意味でリラックスできたからこそ達する境地もあるはずだ。

続けるの?やめるの?

その二択を、本人以外が迫るのは卑劣だ。

ゆっくり決めれば良い。僕らができるのは「おつかれさま」と労うことだけしかない。