私のやり方も良くなかった。いつもは兄や姉に根回しして情報を小出しにするのに、その時は何を思ったか親族のLINEグループで何の前触れもなく計画を発表してしまったのだ。案の定、その日の夜に母から電話が来た。
「あんた、何を考えとんでえ」
「何を、て」
「この酷暑じゃいう夏に、幼子3人も連れて瀬戸内海の島にいくやこう、ありえんじゃろう」
「いや、そんなこと言ったらどこにも行けんがな」
「そんなことはねえ。海やこう横浜から電車で近いところに行きゃあええんじゃ。わざわざ岡山まで来んでも。あんた、よう考えもせんと、また勝手に物事を進めて周りが見えてねえんじゃろう」
「はあ?」
また勝手に物事を進めて、とは、私が離婚を決めて親に報告した時のことが含まれる。相談してほしかったらしく、自分で決めた後に報告したことが、少なからず当時はショックだったようだ。というような背景は今となってはわかるが、その時「お前は親として何も考えてない」と言わんばかりの決めつけにかちんと来た私は、10年以上ぶりに母と口喧嘩を始めてしまった。その後も母からは大変攻撃的な物言いが続いたので「40も超えた自分の子どもに対して「何も考えてない」といったレベルの想像力しか働かせられないことに何より傷ついた」というような話を伝えた。内容を理解したのかしていないのか、終盤は開き直りが始まったので(これもいつものパターンだ)、呆れた私は黙ってしまった。
「はいはい、私が悪うございました、もう勝手にすりゃあええが」
「……」
「あんたの思うようにせられえ、それがええんじゃろ」
「……」
「ほんならもう切ります、おやすみなさい」
で、会話は終わった。
この後、腹がたった私は、誰彼ともなく、いやー、久しぶりに親と喧嘩しましてねえ……などと話していたが、そうしているうちに、自分の抱いている気持ちにふと気がついた。それは母の性格について「分かっていたのにまずかったな」という後悔であり、「まあ仕方ないかな」というような、諦めでは決してない、ある種の理解だった。私の感情は全く凪いでおらず、母に対して歩み寄ろうと試行錯誤を勝手に始めていて、そこに努力も意識もなかった。こうしてみると離婚しようと思った深夜のドライブの時とは明らかに違う。無くなる愛と続く愛の差分を考えるには、興味深い対比だと思う。