水没(ふつうエッセイ #395)

かつて水没とは、大きな「もの」が対象だった。

例えば、ダム建設によって、ひとつの村がまるっと亡くなってしまうこと。台風や大雨によって、町が水浸しになってしまうこと。

共通しているのは、どちらも目を覆いたくなる痛みを伴うということ。「水没した、やったぜー!」という人はいない。特に「没」という言葉がまとう負のオーラはなかなかに大きく、水没=不幸を招くものというイメージがつきまとうのだろう。

最近では、小さな「もの」も、水没の対象に加わってきた。

代表的なのはiPhoneだ。入浴中にiPhoneでNetflixを観ていたら、手が滑ってスマホを落としてしまった。ポケットにiPhoneを入れっぱなしで洗濯機を回してしまった。「水没」と検索すると、そんな小さな「もの」たちへの追悼の声が多く見られる。

当然、共有財産としての村や町は大切だ。同時に、個人が所有するiPhoneも大切だ。

たぶん、ポケットに菓子パンを入れていて、それを洗濯機で回してしまったからとて、「水没」という言葉は使わない。ああ、やっちゃった!とは思うだろうけれど、菓子パンならまた買い直せば良い。「没」は不幸を招くような嫌な言葉だが、その裏には大切なものへの敬意があるようにも感じた。

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「原稿を没にする」という言葉もある。

出版業界で使われる言葉だが、「書き手の原稿というのは、どんなものでも大切なんだ」という価値観が起点なのかもしれない。(実際は、どうだか分からないけれど)

そう考えると、「没になった」原稿なり企画なりも、大切に扱われているという実感を本来は持てるはずである。「没にする」立場の人たちが、原稿なり企画なりを、大切なものという目で扱わっているならば。

作る人の、クリエイティビティは何より尊いものだ。

それを没にする覚悟がないなら、「没にする」仕事から離れた方が良い。「没にする」ことへの痛みをきちんと持てる人こそが、「没にする」資格があるのかもしれない。

没になった全てのものに、魂は宿る。ちょっとスピリチュアルな表現だけど、血が通ったような他者の思いを、汲み取れるような人間が周囲にいてほしい。

没、没、没。

大丈夫、没は「ゼロ」ということでは決してないのだから。