なぜか、仕事がうまくいく(ふつうエッセイ #340)

「なぜか、仕事がうまくいく」。

自己啓発本で書かれがちなキャッチコピーだ。何を隠そう、20代の僕は、その言葉に翻弄され続けた人間と断言できる。

なぜなら僕は、「なぜか、仕事がうまくいかない」人間だったからだ。単純な仕事は要領をつかみさえすれば良いが、勝負をかけるような大希望プロジェクトはほとんど成功しない。周囲とハレーションまで起こしてしまって、上司とともに頭を下げてきた。

上司から告げられたフィードバック内容は、「堀さんは、もっとコミュニケーション能力を上げないとね」というもの。判を押したような共通の答えに「またか」と反発していた。

それでも何度も告げられれば、「僕にはコミュニケーション能力が欠如してる」と思い知らされるようになる。思い込まされるというべきか。もともと、コミュニケーション不足のエピソードは枚挙に暇がなく、改善の意思はなくはなかった。だけど「もっと別のところに課題があるんじゃないか」と思いたかったのだ。

そして自他ともに掛けられた呪いは濃厚になり、しばらく、その言葉を信じて疑わなかった。それがようやく溶解されてきたのは、家族ができてからだったように思う。妻や息子と温かい時間を過ごしす中で、信頼関係をじっくり作る環境であれば、コミュニケーションは問題なく取れるということに気付けた。(まあ、信頼関係を早期に築くこともコミュニケーション能力といえばその通りなんだけど)

他人の懐に入るのが上手い同僚がいた。ほんと見事なくらい、相手の関心ごとを見抜き、あっという間に関係性を築く。彼が「休日に〜〜さんとボルダリング行ってさ」なんて言っていたのに心底驚いたものだった。それより半年も前から付き合いがあったはずなのに、僕は、その方と全くコミュニケーションが取れていなかった。

僕は不快感を与えるタイプじゃなかったけれど、相手の表面上をコショコショとくすぐるようなやりとりばかりをしていたような気がする。それはそれで良くないし、もっと本音を伝えるべきだったとも、いまなら理解できる。

とはいえ、意思をもって相手の懐に飛び込むようなことは僕にはできそうにない。価値観とかマナーとか、そういったものと関係なしに、できないのだ。

なぜか、仕事がうまくいく。

きっとその本には、ロジックで仕事ができる「秘訣」が紹介されているのだろう。「なぜか」という、自らの意思の枠外にある表現を個人的には好かない。主語はいつだって、「自分」であるべきだと僕は信じたい。