ゴミ捨てにおける無自覚(ふつうエッセイ #339)

だいたい毎日、何かしらのゴミが出る。

ご時世として、ゴミ自体を減らさなくてはならないのは前提。しかし小さい子どもを含む家族4人で暮らしていれば、何かしらゴミが出るのは必然だ。

家事において、ゴミを捨てるのは僕の役割だ。自宅からマンションの外階段を降りて、ごみ収集場まで捨てに行く。その過程において、僕は歯磨きをしていることが多い。

別になんてことはない。ゴミ袋を片手に、歯をしゃきしゃき磨いているだけだ。運が悪ければ、近隣の方と出くわすこともある。まあ、それほど大きなマンションではないので、出くわさないことの方が多いけれど、考えてみれば行儀の良い行動とはいえない。

「堀さん、ゴミ捨てのときに歯磨いてるよ」

なんて後ろ指を刺されても仕方がない。以後、やらないように気を付けたい。

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後ろ指ではないけれど、僕はこういった行動に無自覚なことが多い。

社会人1年目のとき、少しだけ早く電車に乗って、会社近くのスープストックで資格の勉強をしていたことがある。店の外を行き来する人が多かったことに全く意識が向いていなかった。だから「堀さん、いつもあそこで勉強しているよね」と言われて、顔から火が出るほど恥ずかしかった。(別に悪いことをしているわけではないのに)

あの感覚って、何なのだろう。今になって不思議に思う。

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無自覚が自覚になった瞬間、色々な可能性に気付いてしまう。何も知らないときは自信を持っていたのに、少しばかりの知識がつくと途端に怖くなる。「何も知らない新卒の学生の方が使い勝手がいい」なんて放言する経営者を何人か知っている。

それは極端にせよ、知識を持つことを警戒する人は案外少なくない。では、知識など必要ないのか。

僕は「必要だ」と言いたい。

たとえ初手が遅れようとも、人生の指針になるような知識の積み重ねは、当人にとって財産になる。それでも人は間違えるけれど、間違った経験を学びに変えれば、その次はきっと間違えない。

映画「キングダム2」で、山崎賢人さん演じる信は諭される。「勇敢と無謀は違う」。77年前、日本が過ちを犯したのは知識なき無謀が招いた悲劇だ。そのことを一瞬たりとも忘れてはいけないと僕は思う。

無自覚を自覚に。無知を知に。

道のりは確かに長いけれど、その終わりなき旅を諦めてはいけないのだ。