メッセージの取り消し(ふつうエッセイ #465)

メールの誤送信に、ずっと悩んできた。

作成中のメールを送ってしまったり、宛先を間違ってしまったり。

僕が社会人になった2007年は、コミュニケーションとしてのメール全盛期だったから、誤送信は日常茶飯事だった。

僕の場合、コンフィデンシャルなど取り扱い注意のものに関するメールの誤送信はない。どちらかというと、社内メールのような、ちょっと気を抜いても良いと思えるレベルのもので誤送信が頻発していたのだ。(ここまで書いて思い出したけど「ご送信」でなく「誤送信」と書いてしまったことが何回もある)

チャット文化になり、誤送信をしても「すぐに修正する」ことで、些細なミスは挽回できるようになった。もちろんそういったエラーもしないに越したことはないけれど、スピード重視で仕事すると、エラーはゼロにならない。だから、チャットツールの修正できたり、メッセージそのものを削除できるのは大変ありがたいものだった。

とは、いえ。

メッセージの取り消しが頻繁に行なわれると、「あれ?なんだこりゃ」と思ってしまう。相手が忙しいのは分かっている。事情も、刻一刻と変化するのが現実だろう。だが、到着していたメッセージがなくなっているのを見ると、伝えたい言葉が虚空へと消えてしまったような喪失を感じてしまう。

そもそも。

メッセージの取り消しとは、最終手段であったはずなのだ。いまは気軽に使えるから、僕だって、親しい友人や家族とのやり取りでは、メッセージの取り消しをときどき使う。使ってしまう。

だが、いくら親しい間柄とはいえ、消されたメッセージの存在は「何が送られていたのだろう?」という猜疑心を生みかねない。何事もほどほどがいい。取り消された言葉は、ゼロにはならない。「かつて存在していた言葉」として、どこかに浮かんでいる。

誤送信は減った。だけど、相手への配慮までゼロにしたくはない。