電車がまいります(ふつうエッセイ #308)

当たり前のように使っている「まいります」という言葉。

「まいる」という言葉は、謙譲語だ。相手より一歩下がった立場で「行く」という意思を示すものだ。そして当然のことながら、「行く」というのは人間が主語で用いられる。

今日、電車を待っていたら、電光掲示板に「電車がまいります」という表示を目にした。「電車が行きます」とはいわないわけで、わずかな違和感を抱いた。電車は、「人間」ではない。

考えてみると、乗り物を主語とした場合に「まいります」はたびたび用いられる。

車がまいります。
タクシーがまいります。

のような感じで。「〜〜さんがまいります」と同じように。乗り物が擬人化しているということだろうか。

一方で、

秋田犬がまいります。
ドローンがまいります。
スイカがまいります。
1万円札がまいります。

といった使い方はしない。「モノ」として「まいります」の使用が許容されるのは、人間が乗る「モノ」だけのようだ。(徳川綱吉が征夷大将軍だったときは「お犬さまがまいります」という使い方はされただろうけれど)

「まいります」ではないけれど、会社や団体などの組織も擬人化される場合がある。

会社にいると、取り次いでくれた同僚から「〜〜社さんがいらっしゃいました」と連絡を受けることがある。「〜〜社の○○さん」と丁寧に伝えてくれることもあるけれど、その辺りをキュッと省略されることで、「〜〜社が来た」という表現が生まれている。

別に誰も困らないし、差別を助長するような表現でもない。

「けしからん!」といいたいわけではないのだが、こういった表現が一般化した背景を深掘りしていくと、現在を象徴する「何か」に気付くことができるかもしれない。

SoftBankのPepperという人型ロボットがあるが、これがますます精度が上がり、ルートセールスくらいこなせるようになったら、どうなるだろう。

「Pepperさんがいらっしゃいましたよ〜」

なんて、普通にありそうな気がする。だって、ドラえもんはもう立派な人的な扱いだもの。人間とロボットの違いはなんだろう。その境界も曖昧になったりして。ロボットの基本的人権、いや、基本的ロボ権みたいなものが言及されるようになったら……

おっと、そんなこんなしていたら、電車がいらっしゃいました。

この辺で今日は、筆を置きたいと思います。