最期には、何かしょうもないフレーズを、次の世代に残すくらいがちょうどいい (片山壮平さん #4)

大正2年生まれの祖母は、平成29年に亡くなった。

祖母といえば、テレビである。昭和時代の私の家族は、年長者を敬う文化が色濃く残っていた。テレビの買い替え時期などは象徴的で、我が家にリモコン付きテレビが最初に導入されたのは、居間ではなく祖母の部屋だった。ワイドテレビに切り替わったのも居間より先。「この家で、おばあちゃんは大事にされているんだな」そう思って育ってきた。

また、祖母にとって遅れてきた最後の孫の私からすると、こう言うのも変な感じだが、祖母は友達のような存在だった。学校から家に帰ると、玄関横にある祖母の部屋へ遊びに行き、昼に再放送している時代劇を一緒に見たり、図書館で借りた本をシェアしたりした。これは長く続き、江戸川乱歩やルパン、ホームズなど名作ミステリーも一緒に読んだし、やがては星新一や池波正太郎、スティーヴン・キングまでも手を伸ばした。他にもオセロやトランプを2人でやることもあったし、仏壇に一緒にお経を上げたりしていた。お陰で私は未だに真言宗の般若心経を諳んじることができる。土曜の夜は祖母の布団へお泊まりに行った。テレビ朝日系列のサスペンス劇場を一緒に見て、夜更かしするのが好きだった。

小学校高学年になると、兄姉とのテレビのチャンネル争いに負け、泣きながら自分の見たいバラエティ番組を見させてもらいに祖母の部屋に通ったことが何度もある。とんねるずじゃなくて志村けんが見たかったのだ。両親はゲーム機は買わない方針だったが、夏休みに友達から借りてきたスーパーファミコンを祖母の部屋のテレビに接続して、FFⅤをやり込んだこともあった。中学生の時だったか。祖母は何にでも関心を持つ気質で、私が進めているゲームを横から見て「そりゃあ何でえ」「んもう、今のは負けたんじゃろう、あんたが」などと絡んでくるので、その時その時の状況をいちいち説明していたような記憶がある。

高校になって、TSUTAYAの週末5本1000円レンタルの時に借りてきたビデオなどにも祖母は関心を示し、「ニュー・シネマ・パラダイス」のストーリーをところどころ一時停止しながら説明したこともあった。面白がってくれるので結局最後まで話したが、傍から見ればシュールな光景だったことだろう。
大学の時の接点は覚えていない。多分家にあまり帰っていなかった気がする。自転車のレースによく出るようになったのだが、遠征に行くたびにお小遣いをくれた。大してバイトもしていなかったのにレース活動資金があったのは、実は祖母の支援が前提にあったということだろう。

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