似ている(ふつうエッセイ #233)

1歳半の息子と一緒に、目黒区美術館を訪ねた。

猫を見つけるたびに「にゃんにゃん!」と嬉しそうな息子。ちょうど良く「東京の猫たち」という企画展が開催されていて、きっと息子も喜ぶはずだと思ったのだ。

始めの頃は興味深そうに眺めていた息子も、昼ごはんを食べた後だったこともあり、やがて腕の中で船を漕いだ。しばらく抱っこしていたが、ベビーカーに息子の身を預けることにした。

思いがけず、ひとりで美術館を楽しめる贅沢にありつけることに。嬉々として鞄からノートを取り出し、気になる作品のメモを取っていく。(ノートにメモを取りながら美術館鑑賞するのが、僕のささやかな愉しみなのだ)

しばらくして気付く。

あれ、「猫」と「描」、ふたつの漢字はけっこう似ているのではないか?と。

「苗」部分は共通で、部首が違うだけ。しかも「てへん」と「けものへん」も、少し似ている。

調べてみると、やはり共通の「苗」にまつわる部分で、成り立ちはどこかで繋がっているそうだ。

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かつて、駅のキヨスクで夕刊が販売されているのを見たときに、ふと「夕刊」と「タモリ」が似ていることに気付いた。

世紀の大発見かのように、Facebookで投稿した。すると「何十年も前から、その二つが似ていることは周知の事実ですよ」と指摘された。かなり恥ずかしかったのを今でも憶えている。

「猫」と「描」が似ている、というのも、同様だ。

似ていることに、気付いた人は少なくない。

というか、似ているって、そういうことなんだろう。だって、似ているんだから。似ていないのなら気付かない(引っ掛からない)けれど、似ているんだから、気付かれてるのは当たり前だろう。

しかしまあ、人間というのは、なぜこうも「似ている」ことに歓喜するのだろうか。

「似ている」ということは、「似ていることを発見した!」といったサプライズが伴うものなのかもしれない。

似ている、というのは奥深い。パズルがハマったような感覚に近いような気がする。……うーん、待てよ。その感覚とは、似てないかもしれないな。