誤字と表記揺れ(ふつうエッセイ #466)

ライターとして、いくつか仕事に携わっている。

書くことは得意だったとはいえ、これまで会社員として書くことで報酬を得ていたわけではない。取材やインタビューも好きだったけれど、教育や研修制度を受けて、体系的に学んだわけでもない。それなのに信頼して仕事をいただけるのは、本当にありがたい限りだ。

自分の内情を吐露すると、ライティングに絶大な自信を携えているわけではない。もちろん完成稿として提出するものは「これが納得のいくテキストだ」と思えるものだし、継続的に発注いただけることもあるから、少なくとも「全然だめ」というレベルではないのだろう。

それでも、執筆に至るまでのスピードが遅い、このテキストで良いのかいまいち自信が持てないといった悩みは常に抱えながらだ。何とかやるしかない。身を削りながら、一言一句に気持ちを込めている。

しかしながら、一番心を痛めるのは、世の中に掲示されている完成稿のテキストに、誤字や表記揺れを発見したときだ。

Web掲載であれば「すみません、誤字が……」と言えなくもないけれど、一般的に「ここは修正しなくても良いんじゃないか」といったこともあって。

例えば「〜〜さんは言います」「〜〜さんはいいます」という表現、ひらがなと漢字が混在していたからとって、たいていの人は気付かない。それをイチイチ指摘し、担当者の手を煩わせることの方がマイナスになるともいえる。「まあ、そのままでいいっすよ」みたいな感じで不問に付すことがほとんどだろう。

それでも、ライターは心の底から落胆する。

だから、色々な事情はあるにせよ、完成稿は、心からの「完成稿」でなくてはならないのだ。誤字も表記揺れも一切ないこと。人間のやることだから、ミスがゼロになることはない。だからこそ、ゼロになるよう最大限努めなければならないのだ。

ここまで書いたことは、「こだわり」ではない。「こだわり」なんかじゃ、全然ない。

最低限の誠意であり、そうあろうとするのは、至極当然と思わなければいけないのだ。それなしで、どんな仕事が成し遂げられるというのだろうか。