お金くださ〜い(ふつうエッセイ #135)

自転車で図書館のわきを走っていたら、下校中の小学生を見掛けた。

4人組の彼らはうねうねと談笑しながら歩いていた。小学5年生くらいだろうか、行儀良く歩くことができないことは、僕も似たような時代を過ごしたことがあるのでよく分かる。

そんなふうに懐かしく感じていると、やおら「お金くださ〜い!」という声が飛んでくる。え?と思わず彼らの方を見つめてしまう。

飛んでくる、と書いたが、その言葉は僕に投げ掛けられているわけではなかった。あえて言うなら虚空に向けて。なにやら引き続き叫んでいるが、もはや同じ日本語なのかさえ判別つかない。

「お金ください」と叫んだ経験は、僕にはおそらく、ない。

「お年玉ください」とねだったことはあるけれど、市中で誰彼ともなくに求めた経験はないと思う。

もちろん「お金ください」と求めるのは悪いことではない。発言自体が誰かを傷つけるものではないし、勇気を出して発言することで生命が救われることもある。

むしろ「お金ください、なんて言うのはさもしいことだ」という言説こそ野蛮である。

じゃあ、どうして僕は、彼らに対して引っ掛かりを感じたのだろうか。彼らがおそらくはちゃんとした家庭で育っているような気がして、場違いな発言を集団でしていたことが理由だろうか。

それは、違う。

なんだか考え込んでしまったのだ。

彼らに「お金くださ〜い」と言わしめてしまったものは何か。個人の貧困でもなく、性格でもなく、少年という時期の問題でもない。

そういえば「お金をあげますよ」と善意をふりかざす人がいる。それを偽善というつもりはないけれど「お金」によって感情がコネクトされるような関係性を、関係性と呼ぶのは正しいのだろうか。

世相。

簡単にいえばそんなところだけど、何か間違っているような直感がある。その直感の正体を、時間をかけて突き止めてみたい。