ばいきんまんの悲哀(ふつうエッセイ #304)

アンパンマンがスクリーンに現れる。

1歳8ヶ月の息子は歓声をあげるが、「そんなに上手くいくなよ」と僕は思ってしまう。一度は顔がつぶれ、非力になってしまうアンパンマン。だが、周囲の協力によって、再び活力を取り戻すことができた。

巨大化し、散々に悪さを働いたばいきんまん。俊敏な動きと漲るパワーによって、あっという間に街から追い出すことに成功する──

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30年以上続くアンパンマンの、お決まりのシナリオといっていい。

2022年6月に公開されたアンパンマンの新作映画「それいけ!アンパンマン ドロリンとバケ~るカーニバル」は、なかなか面白かった。思わずほんのりと涙してしまったほどだが、それでも、ばいきんまんやドキンちゃんの境遇の悪さには首を傾げてしまった。

物語は、アンパンマンをはじめとする市民が、お化けたちの街へと招待されることから始まる。ばいきんまん一味のホラーマンも招待されたのだが、ばいきんまんとドキンちゃんはおそらく招待されていない。

それでもホラーマンの枠を使って街に潜入するのだが、ふたりは変装を余儀なくされている。変装を解いたら、「あ!あそこにばいきんまんがいる!」と、街の人たちに糾弾されてしまうのだ。

まあ、これまでたくさんの悪行をはたらいてきたので自業自得かもしれない。でも「なんでばいきんまんがここにいるんだ!」と社会から冷たく排除されているような雰囲気を、僕は切なく感じてしまう。

ばいきんまんだって、堂々と街を歩いて良いではないか。

「排除されている」という後ろめたさから、自分を認めてもらおうと声をあげているのかもしれないではないか。

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ちなみに前作「それいけ!アンパンマン ふわふわフワリーと雲の国」では、直接ばいきんまんを撃退させるシーンは描かれていなかった。

ばいきんまんが生み出してしまった「悪」が直接の攻撃対象になっていたのだ。「アンパンマン=善、ばいきんまん=悪」という構図に一石を投じたような配慮があったのではと感じている。

今回の作品は、お決まりの「分かりやすさ」に回帰してしまった。

それはそれで子どもが喜ぶし、親も「ばいきんまんを倒せて良かったね」となるのだろう。めでたし、めでたし。でも、僕はちょっとだけ違和感を抱えながら帰路についた。

まだ息子は小さいし、これからもアンパンマン映画を観に行く機会はあるだろう。ばいきんまんが抱える悲哀が、少しでも解消されてほしい。ささやかながら、そんな願いを持っている。