さよなら絶望(ふつうエッセイ #57)

あらゆる言葉が軽く使われていることに危機感を抱く。

しかし自分はどうか?と問われたら、かなり怪しい。例えば昨日今日で「絶望」という言葉を多用した。

広辞苑で「絶望」を引くと、「望みのたえること。希望を全く失うこと。「前途に──する」」とある。

大まかな部分で意味を間違えてはいないが、絶望という言葉を発信する自分の頭の中を覗いてみると、チラホラと希望の前兆のようなものは見え隠れしている。それが表に出ていかないことで「絶望」という言葉を使ってしまうのだけど、それは自らの心情を正しく表現できてはいない。

もちろん世の中には、全く希望を失ってしまうような、本物の「絶望」は至るところで転がっている。転がっている、という言い方はやや他人事のような気もするが、いちいち心を寄せているとメンタルを消耗してしまうほどだ。ある意味でシステマティックに処理しないと、やっていけない。それほどたくさんの「絶望」を眺めていると、心は静かに麻痺してしまう。

だから、と思う。

僕だけは最後の最後まで絶望してはいけない、と。

探せ探せ、希望を探せ。明るいところを探せ。あそこにもあるし、ここにもある。あまりに急に近付くと逃げられてしまう。でも挨拶しようじゃないか、希望に。希望と絶望の、極めて絶望寄りに身を置いていても、ほんの少しの希望だけで走れる気がする。

さよなら絶望、こんにちは希望。

いくら笑われても、ダンスする準備はできている。