「やめろ」(ふつうエッセイ #303)

どんな状況でも、厳しい物言いは相手を萎縮させる。

僕は子どもの頃から、指示や命令をベースにしたコミュニケーションが苦手だった。中学生のとき、部活動として野球を選んでしまったことは後悔しかない。僕が所属していた野球部は、「監督の指示が絶対である」という価値観で染められていた。観るのはいまでも大好きなんだけど、競技者として野球を選択したことは、僕のような人間にとっては間違いだった。

社会人になり会社に所属するようになってからも、「上司」「部下」とか、組織図的な価値観には全く馴染めていなかったと思う。(取り繕ってはいたけれど)

かろうじて相手を「上司」として識別することはできたけれど、僕自身が「上司」として見られることは常に拒絶していた。どんな相手も、「部下」という存在として認識したくはなかった。

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指示や命令が大嫌いにもかかわらず、息子に対して「やめろ」と言ってしまうことがある。

言ってしまった後で、「なんでそんなことを言ってしまったのか」と戸惑ってしまう。だったら言わなければいいのに、自分でも不思議である。

普段は、適切でない言動をはたらいた息子に対して、「やめて」とか「やっちゃダメだよ」とか、そういう言い方で対応している。なのに時々、「やめろ」と強い言葉で注意してしまうのだ。

なぜだろう。

他人に過度に迷惑がかかってしまう言動には、普段よりも少し強めに言うことは必要かもしれない。ただそれはイコール、「やめろ」と語気を強めることと結びついてはいけない。

たぶん、不確定要素が大きい子育ては、知らず知らず大きなプレッシャーがかかっているのだろう。疲れが溜まり、理性的な判断に至れないとき「やめろ」と言ってしまっているような気がする。

僕が疲れているときだ。理性的な判断に至れず、咄嗟に言葉が放たれてしまう。

やめろ。

なんて嫌な言葉だと思う。本当に。

自分を悔やんでいても仕方がない。これは何かの兆候(サイン)なのだ。

プレッシャーをそのまま重荷として捉えないようにしよう。楽しまなくても良いけれど、なるべく味方につけた方がいい。ああ、そういえば「舌打ち」とかも同じような感じだなあ。自分が疲れている兆候というのは、自分自身の行動の変化に見出せるものなのかもしれない。