才能というのは、(ふつうエッセイ #606)

才能豊かな人間は、なにも一部の人に限られた話ではない。もちろん子どものみに限定された話でもない。誰にでも等しく、何かしらの才能が眠っているように僕は思う。

もちろん、その才能はずっと眠り続けている場合がある。

自分で「おれはこの才能があるよ!」と宣言するとか、他者が「あの人にはこんな才能があった!」と掘り起こすとか、そういったきっかけがないと、才能は眠ったままになってしまう。

そして才能は──それが嫌々でなく、本当の才能であるならば──、いくらでも伸ばすことが可能だ。野球選手のような単一な物差しで測られてしまう類のものであれば(これは語弊がありますね、野球選手の才能だって、単一な物差しで測られるものではありませんから)、明確な序列として可視化されてしまうだろう。

だけど、例えば絵はどうだろうか。

資産価値としての絵、という物差しでみれば、「あいつは高い。こいつは安い」と決められるが、人を感動させる絵というのは、本来、そういった金銭的価値とはまた別のところにあるはずだ。ピカソとゴッホを比べたとき、人によって好き嫌いがあるのは、単に好き嫌いというレベルでなく、人それぞれが持っている物差しによって、価値の多寡が変わっているからだ。ピカソやゴッホよりも、日本にいる売れない60歳の油絵画家の絵を「素晴らしい」と評価する人だっている。その60歳の油絵画家は確かに売れないけれど、絵を描くことに並々ならぬ情熱さえ持っていれば、その才能をどこまでもどこまでも伸ばしていくことが可能なはずだ。

才能というのは、かくして単一の物差しだけで測れない難しさがある。

当然のことながら現代社会は「お金」が欠かせない産物だから、金銭的価値がフィーチャーされることが多い。でも、その物差しにあまりにも拘泥してしまうと、「才能を伸ばさない」ことが合理的な判断として見做されることになってしまうだろう。

だからこそ、新たな物差しをつくりたい。新たな物差しをつくりたいと構想している人はまあまあいて、僕は、そのひとりに過ぎない。

でも断言しよう。僕は、人それぞれが有している才能を、心から愛している人間だ。あなたの才能を見出したいと本気で思っているし、おせっかいだけど、リスクを負ってでもその才能を伸ばしてみてはどうか?と提案したいと考えている。だが、言うは易く行うは難しではないけれど、無責任に提案したところで、みんなが不幸になってしまうのが現代社会の「つれない」点である。

どうしようか、どうすべきか。

時々、そんなことをウダウダ考えるのも必要である。ウダウダ考え続けることができるのも、たぶん僕の才能なんだよなと(半ば本気で)思いながら。