ガタガタ言うな。(ふつうエッセイ #444)

齢38になり、何かを強烈に叱責したいと思うことはなくなったのだけど、わずかな違和感が積もり積もって「怒り」らしきものが生まれることはある。

かといって、「ガタガタ言うな!」と声を荒げることはない。言われた相手が萎縮するからだ。そのことを、過去に何度も「ガタガタ言うな!」と言われてきた僕が一番良く知っている。本当に「ガタガタ言うな!」と言うべき相手は、目の前にいるひとではない。そのもっと後ろで居座っているひとなのだということも。

そんな僕が「ガタガタ言うな」と思ったことが、最近ある。

コワーキングスペースのテーブルが、信じられないくらいガタガタするのだ。タイピングするたびに、ガコッ、ガコッとMacBookが揺れ、長時間作業することができない。仕方がないからMacBookを手前に引き寄せ、窮屈な体制で仕事をしなければならなかった。

だが、その窮屈さにも限界がある。

窮屈さが限界に達したとき、思わず頭を過ぎったのが「ガタガタ言うな」である。まったくもって人間主義的な発想だが、人間はそういった主義・思考から、どうも逃れることができないらしい。

机は、何も悪くない。

人間が、雑な使い方をして、歪みが生じただけだ。だから「ガタガタ言うな」なんて言われる筋合いはない。それこそ「ガタガタ言うな」と返答されそうなものである。

場所を移動しようにも、年末が近くなり、コワーキングスペースは混雑している。うーむと思案していたところ、ふと思い立ち、机の上を整理する。

テーブルを180度回転させてみた。

改めて座ってキーボードを打つと、もう何の揺れも発生ない。ガタガタしない。ガタガタ言うな、と言ったから沈黙したわけではない。人間と机の、ちょうど良い塩梅を僕が推し量ったに過ぎない。

そうなのだ。

こういった協調こそが、コミュニケーションの要であるはずだ。どちらかが黙ったり、一方的に怒りを表出させたりするのではない。

考えて、工夫して、落とし所を見つける。

そうすれば、誰もガタガタ言わなくなる。落とし所を見つける一連のプロセスにガヤガヤして、あーでもないこーでもないと模索する。

解決しないこともあるだろう。

でも、お互いに模索したことで共通理解は高まるし、「あのとき一緒に頑張ったよな」という信頼関係にも繋がる。「ガタガタ言うな!」でなく「ガヤガヤやろうぜ!」がポイントなのかもしれない。

世界平和のヒントを見出せて、その日は、心の底から満足した。