スニーカー格差(ふつうエッセイ #244)

長男と次男のスニーカーが汚れてきたので、ゴールデンウィーク最終日を前に洗った。

黒くなっている足底が、買ったときのような白さを取り戻すことに快感を覚える。洗うにあたり腰は重かったけれど、すっきりと洗われたスニーカーを履き、息子たちが元気に走り回る姿を想像すると自然と笑みがこぼれる。

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実は、長男と次男のスニーカーは、けっこう値段の差がある。

兄弟で差別しているわけではない。ちょっとした事情がある。

まず次男のスニーカーは、出産祝いでいただいたニューバランスだ。実際に値段を調べたわけではないが、見るからに質が良い。その辺の大人が履いているスニーカーよりも丈夫で、丁寧に作られているものだと分かる。

一方で長男のスニーカーは、歩くたびにピカピカ発光するもの。長男にはこだわりがあり、靴にせよ洋服にせよ、自分が「好き」でないものは手にしない。長男の意向を無視して買っても嫌がるだけなので、必ず一緒に買い物するようにしている。

いま履いているスニーカーも、長男自ら選んだ。有名なメーカーのものではないし、値段も安い。

値段の差は、スニーカーを洗っているときに実感する。

次男のスニーカーは、力をこめて洗ってもビクともしない。しかし長男のスニーカーは、いまにも破れてしまうのではないかと思うほど、ヤワな作りだ。慎重に洗っているのだが、完全に汚れは落ちているのか心配である。

高級品まではいかなくとも、きちんと息子たちの足にフィットするスニーカーを選びたい。幼少期のスニーカーは、歩いたり走ったりする上で非常に大事なものと聞く。粗雑な作りのものは選びたくないのが本音だ。

だが、長男はいまのスニーカーを心の底から気に入っている。

誰かに「あ、靴が光るんだね?」と言われたら、目を輝かせて、その仕組みについて説明する。髪をなびかせて道を走る姿は、とても誇らしげだ。

きっと靴選びに正解らしきものは、ある。僕と息子の選択は、子どもの成長を考えるうえでは不適格なのだろう。たぶん。

でも、たとえ不適格なものであったとしても、格差があったとしても、それが何だというのだ。

たくましく大地を駆ける息子に、そのような事情はあまりに些細なもの。つい環境面のディスアドバンテージを嘆いてしまう僕だけど、息子の爪の垢を煎じて飲みたいものである。