同化(ふつうエッセイ #104)

ときどき道を歩いていると、こんな状態を目にすることがある。

道路を清掃するよりも先に、車がアスファルトの上を何度も通ることによって、銀杏が地面に同化したのだろう。

このことに、あれこれ文句を挟むわけではない。文句を挟むほどの理由も熱量もないし、良いも悪いもなく、ただただ同化しているだけだからだ。

でもなぜか、今朝は、こんな光景が目に留まったのだ。自転車を止め、来た道を引き返す。iPhoneを取り出して写真に収めた。

あらゆることが、様々な関係者の思惑と交差して、責任の所在を曖昧にする。政治でも、経済活動でも、ご近所付き合いでも、その構図は多かれ少なかれ同じような複雑性を孕んでいる。「これは〜〜が原因だから、〜〜を変えていこう」なんてロジックが通用するのは稀だ。前提条件が幾重にもあって、それらは渋谷のスクランブル交差点のように四方八方に絡み合っている。アスファルトに同化した銀杏のように、お互いがお互いと溶け合って、物事はますます分かりづらくなってしまう。

分かりづらい世の中は、とかく文明が高度化したことを意味しているのかもしれない。恩恵は間違いなく受けていることもあろうが、本来同化しないであろうふたつを目にして、何となく違和感を抱いたように思える。

冬の朝、ひときわ風が冷たい1日だったけれど、思考だけは澄ましていられたような気がしている。