人気投票化する世界(ふつうエッセイ #442)

Twitterは世界を創造し、破壊している。

彼らが、何らかのエコシステムを生んだことは間違いない。140文字でツイートするだけというシンプルな機能は、その気軽さによって多くの人々をインターネットへ招待した。インターネットへの参入を促したと言っていい。「インターネットの民主化」とも呼ばれるほど、Twitterとは、特に2000年代後半には希望の存在だった。

Twitterは、あらゆる既存の「暗黙の了解」を破壊した。

Twitter以前、世の中には多くの「情報の非対称性」がはびこっていた。物事を知っているひと同士の「了解」事項。情報を持っていないひとを排除し、時にマウントを取るような世の中は、新世代にとって居心地が悪い。

Twitterのおかげで、世界はオープンになった。情報を「知ってもらう」ことに価値の重きが置かれるようになり、誰もかれも、自分を「知ってもらう(=フォローしてもらう)」ことに躍起になった。

フォロワー数がひとつの「物差し」として機能し始め、希望は少しずつ歪んでいく。シンボリックな現象として誕生したのは、人気投票化する世界である。

多数決で、全ては決まる。

世間の趨勢を把握するときに、「どっちが良いか」を尋ねる人が急増した。決めるのは当人の特権であるはずなのに、特権を放棄するようになった。特権を放棄することで、上手くいかなければ周囲のせいにすることができる。一見すると、合理的な判断のようにも思える。

しかし本当に「賢い」人たちは、特権を放棄せず、人気投票化する世界を都合良く利用し始める。

大富豪は、世間が構築してきた「暗黙の了解」を、いとも簡単に覆した。「みんながトランプを求めているから」と言わんばかりの姿勢に、僕は再び暗澹とした気分に陥った。大富豪は肝心なことを言っていない。「僕も望んでいるし、みんなもトランプを求めているから」。当人の主語は巧妙にカモフラージュして、決定権を外部に委ねようとしている。

こういった動きは、枚挙に遑がない。

決定権を委ねられた(ように見える)周囲は、彼らの「寛大な」処置に湧き立つ。全ては決まっていたのに、自分たちで何かを決定しているように錯覚する。錯覚というのは、本人が「それは錯覚である」と気付かないものだし、だいたいのところ周囲が警鐘を鳴らしても耳を閉ざしてしまうものだ。

考えれば考えるほど、自由に思考できる余地が減らされてしまう。その場から離れることしか、いまの僕に思いつけることはない。

人気投票化する世界で待っているのは、いったい何だろうか。そのエコシステムの外で生き抜くことは可能なのだろうか。そのエコシステムの中で、自由を明け渡して生きていく方が簡単なのではないだろうか。

きっと、後者が事実だろう。でも、その事実に僕は耳を貸さない。自由を明け渡すつもりはない。それでも何とか生き延びてみせる。