464段の先にあったもの
ドゥオモのてっぺんまでは464段の階段を登らなくてはならない。深呼吸して階段を登り始める。通路は螺旋状になっていて、ぐるぐると目が回る。息を切らしながら、途中ひと休みすると、格子窓の向こうに広がるフィレンツェの街が見えた。
一段一段と階段を登り、ようやくドゥオモのてっぺんにたどりつく。あいにくの天気のせいで遠くまでは見えないが、眼下には赤い屋根が軒並み広がるフィレンツェの街が広がっていた。
だけど。登り切ったわたしには、思ったほどの感慨はなかった。あんなに焦がれていたのに。約9800キロの距離を超えて、ひとりではるばるやってきたのに。混乱する頭の中で、ひとつはっきりとわかったことは、ドゥオモのてっぺんに今いる、ということより、フィレンツェ行きを決めてからのこの今日までの1ヶ月の方がしあわせだった、ということだった。
たとえば私にとってニューヨークは好きな街だし思い出のある街でもあるのだが、それは、かつてビリー・ジョエルを聴いて憧れたニューヨークとは別の街だ。一度も行ったことがないままにくり返し想像し、色や音や情景や状況、つまり物語まで心のなかにつくり上げてしまった街に、人は決して行くことができない。
江國香織『物語のなかとそと 江國香織散文集』
わたしにとって、フィレンツェはまさにそんな街だったのだ。10代半ばから、ずっと憧れていた場所。「ここに来れば、自分の人生が劇的に変わるかもしれない」と思っていた。心のどこかで、あの映画のように、誰かがここで自分を待ってくれているような気さえしていた。今まで好きになった誰か。好きになってくれた誰か。
でも、そこには誰も待っていなかった。
写真を撮ったり歓声をあげたりするカップルや家族連れの中で、わたしは圧倒的にひとりだった。あの物語は必ずしもわたしの人生とイコールではなかった。
「ああ、そうか。
人にはみんなそれぞれの人生があるんだ」
そんな当たり前のことが、そこでやっとすとんと胸に落ちる気がした。悲観的にでもなく楽観的にでもなく、単純にそれがわかった。
ずっとずっと憧れ続けてきた場所に立ち、憧れが現実になったその瞬間、わたしはわたしの中の長い一つの旅が終わるのを知った。「憧れ」という名の旅が、その実現を経てそこで終わりを迎えたのだった。