素麺(ふつうエッセイ #665)

小さい頃から、素麺が好きだった。

大人になっても変わらずに好きだし、何なら息子たちも好物である。

親になれば、素麺を自ら茹でる機会も多くなる。素麺の茹で方は、けっこうコツがいる。適当に茹でてしまうと、途端に粉っぽくなってしまう。「揖保乃糸」のような高いものでなくて構わない。十分なお湯で、適当な時間、しっかりとした熱で茹でよう。

時間が経ったら、すぐに水でそそぐ。氷を使って、素麺をギュッと締めるのが大事だ。

シャワーで垢を洗い流すように、素麺についた湯気をバッサリ落としていく。あれだけ大切な「茹でる」行為だったのに、「茹でる」が終わるや否や、「茹でる」を一刻も早く忘れたいのが素麺調理者の本音である。

めんつゆも、きっちりと。

まだ子どもたちは薬味を必要としない。本当は青ネギや生姜を添えたいところだけど、まあ、そのままで良いだろうということで、そのまま食卓に出す。

案の定、子どもたちは素麺が食卓に並ぼうとしているときも、ギャーギャーと遊び回っている。素麺のときばかりは「早く!のびるぞ!」と言うようにしている。のびた素麺ほど、情けない味のものはないからだ。

いただきますを言った後は、すぐに食べる。間髪などいれない。間髪をいれるとするなら、麦茶を飲むときぐらいだろう。

そうやって、素麺は食す。だいたい7〜8月は素麺が食卓に並びやすい。飽きてきた頃には、素麺はひやむぎや蕎麦に変わっていく。麺の世界は、四季によって上手いこと移り変わるものなのだ。