つぶあんとこしあん(ふつうエッセイ #141)

仕事前に、あんぱんを食べたくなる。

コンビニで、つぶあんの商品を手に取ってレジに向かう。

ふと、わずかな違和感を抱き、ふと立ち止まってみる。

あれ、僕はつぶあんとこしあん、どちらが好きなんだっけ?

どちらもそれほど変わらないのでは?という意見があるのを承知で書くが、つぶあんとこしあんは、味が同じである点以外は、かなり違う食べ物であると僕は思う。(つぶあんとこしあんは製造過程が違うから、「味が同じ」と書いたのは暴論だけれど……本エッセイの趣旨とは異なるのでご容赦いただきたい)

分かりやすいのは、食べたときの食感だろう。

食べたときに、小豆の食感がガリっと味わえるのがつぶあんだ。こしあんはもっと滑らかに舌に馴染んでいく。どちらを選ぶかによって、甘さの感受の仕方が変わっていく。スポーツでいえば、マラソンをするのかサッカーをするのかくらい、疲労具合は違うだろう。

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ちなみに僕は、こしあんを選ぶことが多い。

けれど、ここで言いたいのは「つぶあんとこしあん、どちらが優れているか?」ではない。

なぜ僕は、つぶあんとこしあんの選好に無自覚だったのだろうか。

古典的な二者択一で「犬と猫、どっちが好き?」というのがある。これはおそらく、答えられる人が多いのではないか。あんぱん論争は、犬猫の二者択一よりは、サッと答えが出てこないものだ。どうしてだろう?

それは同じ「あんこ」という価値を含んだの商品であり、同じ「パン」というメディアで包まれた商品だからではないだろうか。

僕は「こしあんを食べる」という意識は普段はなく、「あんぱんを食べる」という意識を持っている。本来ではあれば、つぶあんとこしあんは全然違うのだけれど、同一化させながらパンを食しているのだ。

だからこそ、こういった感覚には敏感でいなければ!と思う。

花はひとつとして同じものはないし、ワークプレイスだって場所によって様々だ。人も、国も、一様に語れるものではない。(特に日本人は「欧米」といって一括りにする傾向があるが、ヨーロッパとアメリカは全然違う価値観を有している)

鈍感力という言葉に翻弄されず、良いものは「何が良いのか」「他と何が違うのか」といったことまで突っ込んで考えてみたい。

あなたに問いたい。

あなたは、つぶあん派ですか?こしあん派ですか?

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そういえば、最新号の雑誌・BRUTUSの特集は、「なにしろ あんこ好きなもので」だった。読まねば!