消毒液、マスク、コミュニケーション(ふつうエッセイ #142)

通っているコワーキングスペースのビル入り口で、消毒液の噴射が上手くいっていなかった。

どんなに押しても空気が出てくるだけで、申し訳ない程度の水滴しか噴射されない。ここが壊れていたからオミクロン株が広がったんじゃないか、なんて邪推はあまりに非論的だし口が裂けても言えないのだが(事実ではないので)、先日ようやく直っていた。

心置きなくシュッシュできるようになって嬉しい。

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消毒液は、コロナ禍で生まれたコミュニケーションツールだ。

これが入り口に設置されていることで「感染対策しましょうね」という無言のメッセージになる。もちろんこれを使用する / しないは来館者に委ねられているのだが、やはり感染拡大に至っている今、いそいそと噴射を受け入れている人が多いように感じる。

消毒液でなく、マスクもコミュニケーションツールだと言える。

昨年夏頃、コワーキングスペースに通っている人で、ずっとマスクを外しているおじさんがいた。デルタ株が猛威を振るっているタイミングであり、まだ広くワクチン接種がなされていないとき。

僕は、何度か彼に対して「マスクしてくれませんか?」と伝えた。彼は「いま、飲み物飲んでいるところなんで」と言った。

嘘をついている。僕は、彼がしばらくマスクを外しているのを確認してからお願いしたのだ。

コミュニケーションには良し悪しがある。彼にとって僕はうるさい存在だったかもしれないが、僕は、彼のことを信頼できない人だと感じた。そのきっかけはマスクだった。マスクがコミュニケーションのきっかけとなり、そして「彼とは分かり合えない」と僕が断定した判断材料にもなった。

そう考えると、身につけているもの全てがコミュニケーションであり、メディアであるんだよな……と、マクルーハン的な思考がもたげてくる。

とにかくも、今日もせっせと消毒液を手に吹きかける。

多少、手が荒れるのは仕方ない。それが、僕と他者をかろうじて繋ぐ道具なのだから。