自分にとって、ノイズとは何か?(ふつうエッセイ #272)

ノイズとは、本来は雑音を意味する言葉だ。いまでは、不要な情報全般を指す言葉へと派生している。

不要な情報全般といっても幅広く、必要かどうかの判断は結構難しい。その情報をインプットすることで気分が悪くなればノイズなのか。何をもって必要だと見做すのか、それを自分自身で判断して良いものか。

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一方で、社会的に最大公約数と見做されるような情報は、ノイズにはならないのだろうか。

「気分が悪くなる」ことがノイズだというのであれば、僕にとって昨年の東京オリンピック・パラリンピックの喧騒は間違いなくノイズだった。

もはや「五輪を開催する」ことが目的になってしまい、あらゆることが「五輪を開催する」に向けて正当化されていった。政治家や五輪関係者の欺瞞を挙げればキリがないほどで、でも、そのたびにしっかりとウンザリさせてもらっていた。

この「ウンザリ」や「ムカムカ」が消えてしまったら、様々な不合理にも見て見ぬフリをしてしまいそうで。そう考えると、それらの情報は僕にとって必要ともいえたわけで、ノイズではなかったかもしれない。

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ただ、本当に「どうでもいい」ことには、感情を昂らせることがなくなったようにも思う。いちいち名前は挙げないが、とあるメディアに頻繁に顔を出しているような人たち(+取り上げられ方)に関しては、情報が目にしなくなるような工夫を施している。

僕が世界の中心ではないのは重々承知しているけれど、僕が「どうでもいい」と思っていることに対して、少なくない人たちが歓声をあげている状態については不思議に思っているのは確かで。

何が面白いんだろう。もっと面白いことは、世の中にたくさんあるのにな、と残念に思わなくはないのだ。

そういう「モヤモヤ」を抱えながら、この「ふつうごと」というWebサイトは運営されている。

常に「ふつう」を考えている一方で、「ふつうじゃない」ことも考えている。「ふつう」と「ふつうじゃない」は、必ずしも対になる言葉ではない。愛と憎しみは隣り合わせであり、その対義語が無関心であるように。感覚というのは、0と1のデジタル的な基準では測れないものなのだ。

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ノイズの話から、ずいぶんと話が広がってしまった。

このエッセイも、きっと誰かにとってはノイズになるんだろう。でも僕は、誰にとってもノイズにならない文章を書くつもりはない。誰にとってもノイズにならない文章というのは、たぶん僕にとってはノイズになってしまうから。

ノイズのような、ノイズにならない文章を書きたい。目指す場所は、なかなか果てしない道のりの先にあるようだ。