敷かれたレール(ふつうエッセイ #570)

他者によってお膳立てされた人生を歩むことを、「敷かれたレールの上を歩く人生」なんて表現することがある。

親の影響力が強かったり、学校の先生のアドバイスに従順だったり。自分の意思とは別の選択をしてしまうことに、ネガティブな印象を抱く人が多かったように思う。(レールとはもともと敷かれているものであり、わざわざ「敷かれた」と表記する必要はない気もするが、それはそれとして)

原点に立ち返ってみると、敷かれたレールの上を歩く人生が幸せなのか、不幸せなのか、一概に言えないのではないかと感じる。実際、この手の議論が止む気配はないし、自分の経験がベースになるから説得力も再現性も低くなる。

ちなみに僕自身は明確に、他人に敷かれたレールの上を歩く人生なんて「まっぴら御免だ!」と考えてきた。それが強まり過ぎていた時期は、他人のアドバイスに反発してあえて逆の道を選ぶというような、極めて非合理的な選択をとっていたこともある。そこに意思はない。あいつがそう言うなら、あいつの言うのとは正反対のことをしよう、みたいなことだ。

レールの上を歩かない人生は、当人の意思があるとは限らない。それは僕自身が、図らずとも証明してしまった。

ただ、レールを作るのは結構大変だ。それなりに人手が必要だし、時間だってかかる。かの機関車トーマスも、「魚釣りをしたい」と業務放棄しそうになったエピソードも存在する。

時々、休んだって構わない。考えてみれば、日本で生きる限り、それっぽいモデルコースのようなものは多かれ少なかれあるはずで。よほど破天荒な人でない限り、「そういうパターンね」なんて言われてしまうものだ。

でもやっぱり、意思は大切だ。

休むにも意思が必要だし、敷かれたレールをしっかりと進むためにも、意思がないことには始まらない。

意思は、AIでは作れない。だから僕は、インターネットサービスのレコメンデーション機能が苦手なのだ。そこに意思はない。間違っていても、筋が悪くても構わない。まずは、意思ありきで始まるのだ。例えば、逆張りするという意思であったとしても。