激怒、激昂、ブチギレ、猛反論(ふつうエッセイ #43)

どんなテキストにせよ、激怒や激昂に関する言葉がついただけで、つけられた側の「負け」が確定する。

もちろん何かを議論していたり、学校や職場などで激怒している人間がいたら、その行為は問題外であり、厳しく非難されるべきだ。

僕が指摘したいのは、こういった動作が恣意的に添えられてしまうことだ。大して怒っていない人を「○○さんが激怒している」と表現することによって、○○さんがまともな感性を持っているとは想像し得なくなってしまう。なので自然と、激怒された側が「勝ち」になってしまうというわけだ。

議論とは、本来勝ち負けではない。

色々なことを協議して、すり合わせてより良い意見に磨き上げていくことが肝要だ。激怒や激昂に関する言葉は、そういったプロセスを全て台無しにしてしまう。

読み手は注意すべきだ。○○さんは「本当に激怒しているのか?」と。完全に怒りがないわけではないだろうが、たいていの大人は怒りを押し殺しているはずだ。四六時中激怒している人なんて、(異様なケースを別にして)いないのが普通なのだ。

激昂も、ブチギレも、猛反論も同様である。

メディアやネットニュースを変えることは困難だ。彼らに変わってほしいと期待することはできない。なぜなら激怒や激昂に関する言葉を使った方が注目(ページビュー)を集められるからだ。言葉はどんどん過激になり、読まれたそばから使い捨てられていく。勝敗がつけられたテキストに責任を持つ者など誰ひとりとして存在しない。

こんなの普通じゃない。普通じゃないけれど、それが普通になっている世の中だ。

さて、このテキストを書いている僕は激怒しているだろうか?それは他の誰でもない、読み手である「あなた」に評価してほしい。