174の宿命(ふつうエッセイ #53)

先日、健康診断を受けた。

35歳以上なので、それなりに多いメニューをひたすら処理していく。まるでアスリートのようだと思うが、実際にはなすがままなのでアスリートと比喩するのは適切ではない。

それでも前日夜から食べ物を口にしないというのはボクサーのようだし、バリウムを飲んだ後に検査台をグルグル回るのはSASUKEのようだ。

幸い採血をしてもフラつくことはないので、1年に1回の健康診断は無難に終わる。健康体を自負しているが、40歳が手近に迫るにつれて、無自覚での病魔はなかなか恐怖に思えてくる。家に帰り、元気な3歳児と1歳児の姿を見ると、少なくとも25年は生き続けねばという気持ちになる。無鉄砲だった20代の頃とは、健康診断に賭ける気持ちが違う。しつこいようだが、これもまたアスリート的だ。

そんな中で無邪気に気になるのは、身長である。

たいてい僕は174cmで、もはや、それが大きく前後することはない。

少しだけ前に、ちょっとだけ背伸びをしたことで175cmを超えてしまったが、きちんと顎を引き測定器に身を任せれば174cm前後で数値は落ち着く。

2021年度は、174.6cmだった。

ズルはしていない。

もう一度言います。ズルはしていません。

これはちょっとした驚きで、同じ174cm台であっても、極めて175cmに近い。174.2cmだったら迷わず「身長は174cmです」と答えるが、174.6cmであれば四捨五入すれば「身長は175cmです」と答えることができる。

そのシチュエーションを頭に浮かべてみたが、でもやっぱり、僕は「身長は174cmです」と答えてしまうだろう。

長年染み付いた「174」という数値は、僕には代え難いものだ。どうしても「175」に届かなかった。それが身長174cmの宿命である。この宿命の重みは、決して身長175cmの人には理解できない。「そこに届かなかった」客体としての宿命は、174cmの人にしか背負えないものなのだ。

僕は想像する。身長175cmだった世界を。

その世界は見通しが良く、今よりたくさんの利点を得られるかもしれない。羨む気持ちがなくはない。

でも僕は身長175cmの人には背負えない宿命を背負っている。それは誇らしく、174cmの視野を何よりも愛でているのだ。

きっと来年も、僕は身長174cmのままだろう。それを確かめるために、1年に1回の健康診断を受けるといっても過言ではない。