声の大きい人が苦手だ。
会議にも、その人がいると分かっただけで嫌な気持ちになった。その人は、ほとんどの局面で反対意見を述べる。「それは、これこれの理由でうまくいかない」とか。やけに自信たっぷりに言う。
僕はそれが嫌なのではなく、その人の言葉によって周囲も同調してしまうのが嫌なのだ。たぶんそんな研究結果もあるんじゃないか、声の大きい人の意見は通りやすいとか。
小学校の頃も、やたら大きな声で主張するクラスメイトがいた。けっこう、何人もいた。彼らはきっとそれぞれに事情を抱えていたんだ。今なら分かるけれど、当時は大きな声が耳に入るたびにビクビクしたものだ。彼らの矛先が自分に向くのではないかと。
じゃあ、小さい声の方が良いのか。と言われるとそんなことはない。小さい声で喋っている人も苦手だった。彼らの声が聞こえづらい、でも、彼らはちゃんと声を出して喋っていると思っている。それを咎めるのも心が痛む。だけど、そうやって放置していたら、なんだか不気味に思えたりするのだ。彼らの矛先も、また自分に向かないことを祈っていた。
ちょうど良い声。というものが、きっとベストなのだろう。でも、その「ちょうど良さ」はどのシチュエーションにて生まれるものだろうか。僕の声はちょうど良く、聞こえているだろうか。
ときどき、2歳の次男は僕のことを「怖い」と言う。
優しくない、という意味だと分かるけど、その「怖い」に、僕はドキドキしてしまう。
生存するために必死な子どもたちにとって、優しくない大人はリスクである。その本能から、まっすぐに僕へと「怖い」という言葉を投げ掛けるのだ。
怖さまでいかなくても、僕の書いていることが声として届いたとき、ノイズのような印象を与えてしまうこともあるだろう。必死で綴った言葉がノイズとして見做される。そんな悲しいことがあるのだ、時として。
「失敗しても大丈夫」
そう言ってあげたいけれど、時々、それは嘘っぽさが混ざる。大丈夫とはいえない、だって、僕が大丈夫な存在でないのだから。