存在(ふつうエッセイ #621)

今日のエッセイは、とりあえず「存在」という言葉をタイトルにすると決めた。

内容は全く決めていない。手元には、ハイデガーの『存在と時間』もない。『存在と時間」も結局通読できていないし、僕が存在ついて語れることなんて、何ひとつないのだと途方に暮れている。

僕は、僕の人生を生きている。他人の人生を生きていない。だから僕は、僕の視点でしか世界を見ることはできない。すごく傲慢だけれど、もしかしたら僕以外の人間は心がなくて、僕の周りをただ周遊している存在に過ぎないのでは?と思うことだってある。地球と月のように。それもまた、僕は、僕の人生しか生きられないことによる想像力の欠如がもたらす傲慢さだろう。さすがに普段の僕はここまで傲慢ではないけれど、僕と同じように思考し生活する人たちがいることを、あまり想像できなくなってしまうのだ。

逆にいえば、僕だって他人からみれば、そういう頼りない存在に映っている可能性はある。「あいつは何考えているか分からない」。良くも悪くも、そういう印象も持たれているのではないだろうか。

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今日、保育園に行く道すがら、公園で蟻の行列を眺めていた。

1ミリ程度の大きさの、小さく赤い蟻を、息子と一緒にしばし観察していた。(おそらく「サクラアリ」という名前の蟻だ)

彼らは集団で行動する。1匹では非力だが、無数に集まることで、カブトムシの幼虫を餌として捕獲できる。集団になって初めてパワーを発揮する虫なのだ。

この一つひとつの蟻たちは、(人間ほどの頭脳は持ち得てないにせよ)何か思考というものを持っているのだろうか。1匹だけ死んだとて、集団のダメージはほとんどない。じゃあ、その1匹の蟻という存在は、どんな意味を持つのだろうか。

翻って僕の身体だって、たくさんの細胞によって構成されている。1つの身体としての人間が僕なわけだけど、もっとつぶさに観察すれば、細胞の集合体なわけで。じゃあ、僕の存在とは、どう定義されるべきなのだろう。

あの集団の蟻たちを思い出しながら、おれはそういう全体性を潜めた人間かもしれないなと、思いを馳せるのであった。