「スーパースター」という言葉(ふつうエッセイ #221)

人気者という意味の「スター」や「スーパースター」という表現に、むかしから違和感を抱いてきた。

ちょっとキラキラし過ぎではないか?

特段、僕は斜に構えているわけではない。(と思う)

例えば、僕は木村拓哉さんのことが好きだ。テレビドラマで演じる彼は、まさしく「キムタク」だったし、SMAPとして見せる歌唱やダンスは文句なく格好良かった。

けれど、ひとたびSMAPのライブ映像が流れ、観客から歓声があがると「え?」と止まってしまう。もちろん僕も「格好良いな!」と思ってはいるけれど、その思いは、内面でグッと噛み締められている。声をあげるには至らない。

この差は、なんだろうか。

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今や「スター」「スーパースター」に類する表現はたくさん出ている。

でも、そのたびに「そこまでキラキラした存在だろうか?」と首を傾げている。嫉妬の感情もちょっとはあるだろうけれど、第三者のような褪めたポジションから、スターと呼ばれる人たちの活躍を眺めている。

正直に言おう。

スターと呼ばれる人たちの中に、「うさんくさい」と感じる人も、間違いなくいる。

実際のところ、彼らが本物だろうと偽物だろうと、僕の生活は1ミリも影響しない。

けれど、「うさんくさい」と嗅ぎ取る感覚について、その精度を高めることはきっと役に立つ。「うさんくさい」に近付いてはいけない。できることなら、本物に触れていたい。

自らの感性を、痩せ細らせてはいけない。そのための第一歩として本物に触れる必要がある。

本物のエンターテインメント、本物の芸術、本物の経営者、本物のプロフェッショナリズム……。

何が本物かなんて、正解はない。定義もない。

だけど、何を本物だと感じるかは、その人の、人間性に大きく関わっていく。

つまらないものを、本物だと感じてはいないか。かつて僕はつまらないものを本物だと思っていたこともある。その後悔はずっと胸に刻まれているからこそ、その自問自答は、ずっと続けなければならない。