極限状態(ふつうエッセイ #186)

極限状態とは、どういう状態だろうか。

食べるものが不足し、十分な水分もない。周囲に頼れる人もいない。一種の「孤独」状態にあるのではないかと想像している。

かたや仕事で、極限状態と言えることはあるだろうか。

資金が底を尽き、明日までに十分なキャッシュが入らないと従業員に給料を支払えない。取引先からも督促を受け、にっちもさっちも首が回らない状態。おいそれと他人に相談できるわけもなく、それはなるほど、考えたくもない極限状態と言えるだろう。

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翻って、僕という人間は、これまで極限状態を経験したことがあっただろうか?と思い巡らせてみる。

確かに、あったと思う。

しかしそれは、上述したような生死が差し迫るような状態ではない。

「今、かなりキツいな」よりも、目盛りを4つか5つほど下げたような状態。頭がいっぱいになって、どう動けば良いのか分からない。ああヤバいと絶望し、ただただ焦燥している。

極限状態の定義を考えたからこそ、今振り返れば、それらは大したことないんじゃないかと思えている。関係者と酒を酌み交わせば、笑い話で済んでしまう出来事だ。

だけど、そのときは、猛烈につらかった。大変だった。うっかり眠ってしまうことが恐怖だったし、だけどいっそ眠ってしまえれば楽だとも思った。

何に対して、あんなに怯えていたんだろう。

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とはいえ、あのときの感覚は、確かに極限状態と言えたのではないだろうか。

極限状態とは、他人によって定義できるものでなく、個人による相対的な尺度でしか測れないのではないかと思うのだ。

例が悪いかもしれないが、日本よりずっと衛生状態が悪い国で暮らす人たちは、それ自体が「ふつう」になっているので、彼らの生活において大変さはあまり感じていないだろう。日本人がその生活を体験することで感じる不便さは、当人による相対的な尺度で測られているに過ぎない。

だから、その状況が極限状態かどうかの判断に不正解はない、というのが僕の結論だ。

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メディアなどで「〜〜人は極限状態にある」というのは、ある側面からすれば、疑わなければならない表現ではないかと思うのだ。

もちろんその状況や描写は、想像するに「大変であろう」ことは間違いないと思うのだが、極限状態であると記述することによって、ある種、想像力が固定化されてしまうことはあり得るのではないかと思う。

テレビで「〜〜は号泣必至!」というようなテロップが出たとき、僕らは泣くことが(半ば)強要されている。ここで泣いてほしいとテレビ側が呼び掛けてくる。「心温まるエピソードです」とアナウンサーがニッコリ笑えば、僕たちは(半ば)ほっこりしなければならない。

感情は、そうやって容易に操作されてしまう。

その表現は、本当に正しいのか。僕らを安易に流そうとしているのではないか。常に警戒しなければならないなんて大変だけど、あらゆることを次から次へと処理しなければならない情報社会において、それはもはや「技術である」とすら思わされるような風潮でもある。

楽しいときに、楽しいと笑う。楽しくないときは、首を傾げれば良い。

それこそが「ふつう」の所作だと、僕は思う。