生まれた瞬間のことは、よく覚えている。
あのときの私はとにかくめちゃくちゃ痛くて痛くて、狂っていて、看護師さんの「赤ちゃんもがんばってるよ!」という言葉にキレそうになった。ふざけんじゃねー、私が世界で一番がんばってるわ、と思った。
だけど。はじめて顔を見た瞬間、なんともいえない愛情がこみ上げてきた。満身創痍で、さっきまで世界一辛い思いをしていると思っていたのに、突然「人生でいちばん幸せだ」と思ったのだ。とても不思議な感覚だった。
こんなに小さな生き物が、人間といっていいのかわからないほどの生き物が、突然人生で一番大切な存在になるなんて。
傷みはすべて吹っ飛……びはしなかったけど、ボロボロなのになんだってできる気分だった。はじめましての息子はなぜか生まれた瞬間から目力がとても強く、しっかりと私を見つめるのですこし人見知りした。
それからは怒涛の日々だった。ありえないほど眠れなくて、ありえないほど泣く我が子に毎日焦り、私もたくさん泣いた。増えまくった体重は一瞬にして戻ったし、白髪がとても増えたし、毎日どこかしらがとても痛いし、基本的人権の尊重がされてないと嘆くときもあるけれど、どういうわけか私はとても幸せだった。そこにあるのはまぎれもなく愛だった。なぜか自然に、唐突に、私は愛を習得していたのだ。
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私は仕事を愛していた。今も愛している。
だけどその愛は、相変わらず承認欲求の一環だった。
はじめて失恋したときと大きく違うのは、ちゃんと努力していたこと。努力によって自信をつけたこと。技術を磨いたこと。その点で大きく違った。
だけど息子への愛はまるで違う。息子が生まれてからは、愛することは承認欲求を満たすものではなく、承認欲求という呪縛から解き放ってくれるものだと知った。
いま私は、まったく誰からも認められなくても息子のことを愛しているし、愛したい。愛することそのものが幸せだ。馬鹿でも育てにくくても親孝行じゃなくてもいいから、幸せな人間になって欲しい。
臨月ごろの日記を読み返すと「さみしさに突然かられるも、誰かに連絡するのが億劫でやめた」と書いてると思えば「もうすぐ会えるね、とても大切な存在」と書いてたりして、孤独と不安と、それを埋めようとするやけに小ぎれいな言葉が呪いのように埋められていた。不安だったのが分かる。
今の日記はこうだ。「バナナが好きすぎて2本食べた」「うんちが人間みをおびてきた」「夜中に馬乗りになって突然ニヤリと笑う息子、こわい、爆笑」。やけに他愛もない。なにもかもが不自由だし、たいして誰からも褒められない毎日だ。だけどなぜか、とても幸せなのである。
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