おしゃべり(ふつうエッセイ #316)

口数が多い人のことを「おしゃべり」という。

良い意味で使われることもあれば、暗に非難する文脈で使われることもある。日本では、おしゃべり代表格は明石家さんまさんで、口数が少ない人代表は高倉健さん、ということになるだろうか。

喋ることを考えてみる。人は、なぜ喋るのだろうか。

ひとつには「伝える」ということがある。人間以外の動物も「鳴く」ことはあるが、人間と比べて語彙は少ない。ただし少ないながらもコミュニケーションを図っている。喋り、群れをつくり、触れ合ることで、動物同士の世界は成立している。

一方で人間の場合、生活レベルを向上させていくために語彙を増やす必要があったのではないだろうか。狩猟から稲作へ──。力によって動物を狩れば良かった時代から、仲間と力を合わせて農作物を収穫する時代へと移り変わる。そのタイミングで「ひとりでは生きられない」という社会性が生まれていったのだ。

もうひとつは、「安心したい」ということ。人間は、ときどき独り言をしゃべる。ひとりで喋る事柄は、他人に伝えるという目的ではない。僕は中学校のとき、よく登下校のときにひとりで色々なことを喋っていた。同級生と登下校するのは苦痛で、好き勝手に妄想を繰り広げることが楽しかったのだ。

独り言でなくとも、喋りながら「安心したい」と思うことは多々ある。「あいつは他人の話を聞いていない」なんてことがあるが、それは、喋りながら自分自身を落ち着かせているのではないだろうか。発信することがある、言語化ができた、聞いてくれる人がいる……あらゆる要素が安心へと繋がっているように思うのだ。

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翻って自分に置き換えてみると、最近は「安心したい」と思って喋ることが増えているように思う。

聞いてほしい、聞いてくれる人がいる、嬉しい。そんなふうに無意識のうちに、喋り続けている実感がある。

聞いてくれる相手が、それで良いと思ってくれたら良いのだけれど。そうとも限らないのが怖い。

発信したいことがある。でもそれは、受信する人たちがいるということだ。誰もが発信できる時代は、誰もが明石家さんま化するということに他ならない。そのトークが面白ければ価値はあるんだけど、そうもいかないわけで。

本当に、おれは面白いのだろうか。

自信は全くないけれど、とにかく発信したいことが山ほどある。それが、僕がおしゃべりであるという理由であり、存在意義なのかもしれない。