表情を作れない君へ。(ふつうエッセイ #645)

スターバックスで仕事をしていたら、近くに座っていた老齢の方が、体勢を崩して尻餅をついていた。幸い怪我はなさそうで、すぐに起き上がってことなきを得る。

しかし僕が驚いたのは、彼の隣にいた男性が、その様子を見ながら笑みを浮かべていたことだった。怪我がないか心配していたのも束の間で、僕はしばし男性の方を凝視してしまっていたのだが、男性自身もその表情・行為が「まずい」と思ったのか、周囲の視線を遮断するかのように、自分の仕事へと戻っていった。

一瞬ひどいなと思ったけれど、思い直した。しばし熟考の末、僕は、彼を「ひとでなし」と断罪することはできないと思った。

驚いたのは事実だ。ふつう浮かべるべき表情を作れない何らかの事情があったのかもしれないし、それが彼の表情の癖かもしれない。映画「怪物」で、永山瑛太さん演じた保利が、恋人から表情の不審さをからかわれていたが、そういったことは多かれ少なかれ誰にでもある。

僕も他人に対して、「こんなときに、どうして薄ら笑いを浮かべられるのだろう」と思ったことが、しばしばある。でもこれは、当人に悪気があるわけではないのだろう。

自分のことを振り返ってみたとき、僕もうまく表情を作れなかった時期があった。それは高校2年生のときの部活動。大嫌いなチームメイトの前で、うまく笑うことができなかったのだ。といってもそれは自覚していたわけではない。あろうことか彼から「お前の表情は歪んでいる」と言われたのだ。どうやら笑顔を作ろうとしてうまく笑えず、口の端だけ曲げていたことで、奇妙な表情を作っていたらしい。

ああ、おれは欠陥があるのかもしれない。

そう悩んだけれど、部活を辞めた後で、そういったストレスからは一気に開放された。引退まで部活を続けていたことに後悔はないが、辞めた方が心身のためには良かったかもしれない。

というか、高校2年の秋に「おれはもう部活に行かない」と宣言し、周りをあたふたさせたのも覚えている。2週間ほど部活に行かず、そのままテスト期間に入った。たまたまテスト前に勉強する時間をとれたことで、テストの成績はわりに良かった。そこで「ああ、おれは勉強すればそこそこ良い成績を収められるんだ」と思えて、部活に復帰した。復帰後も、そのチームメイトのことはずっと嫌いで、関係性はひとつも良好にはならなかった。20年経った今も、部活の集まりには顔を出さない。高校時代という貴重な時間において、何とももったいない交友関係だなあと嘆息する。でも、そのとき、そして今も、そういったささやかな反抗を続けていることが、僕の気持ちを健全に保てているのかもしれない。そう思い込んでいる。

と考えたときに、今日見かけた男性のことを糾弾する気にはならない。なれない。彼はまだ、何かトラウマを抱えているかもしれないのだ。

それを誰にも気付かれないように(少しは勘付かれていると思うけど)、ささやかに生きている。

そんな彼の生き様を、どちらかといえば肯定できる人間でありたい。想像力の飛躍かもしれないが、彼は、あのときの自分だったかもしれないのだから。