ルッキズムに呪われているのは誰か(ふつうエッセイ #143)

平日の昼下がり、処方された薬をもらいに薬局に行く。

世の中には2種類の薬局がある。テレビがある薬局と、テレビがない薬局だ。なんて普通のことを書いているけれど、運悪く、僕の自宅のそばにはテレビのある薬局しか存在しない。

言っておくが、僕はテレビが嫌いなわけではない。意図せずに、テレビが流れている状態が好きではないのだ。観たいテレビ番組は自分で選ぶ。観させられるのはごめんだ。

薬局で流れているテレビ番組は、だいたいワイドショーが多い。時間帯というのもあるけれど、滞在時間の10分前後で完結するものが望ましいからだ。(間違っても、2時間の尺を使うロードショーは流れない)

この日は、あえて薬局でワイドショーを眺めることにした。

ワイドショーでは、とあるスポーツチームの女性選手を、メイクやスタイリングで大変身させようという企画が放送されていた。ビフォーアフター系のコンテンツは何度も使い回されているものだが、2022年ということで、番組側もルッキズムに走らないように躍起になっていた。

「あえて目元以外はそのままで」といった配慮も見られたが、どうしたって「メイクしたら可愛くなるよね、可愛くなった方が良いよね」という価値観に移ってしまう。(そして出演していた女性には申し訳ないけれど、メイク前の彼女たちの方が断然輝いているように僕は思えた)

そもそも、いったい誰がルッキズム的なコンテンツを好んでいるのだろうか。

視聴者だろうか。いや、僕は、テレビ側なのではないかと思う。そうでなければ、視聴者が離れてしまうと思い込んでいるのではないか。だからこの手の企画で、間を持たせようとする。ルッキズムの呪いはなかなか根深い。

でも、そんなことをしなくても、面白いコンテンツさえあれば視聴者は嬉々として番組を観てくれるはずだ。「ここでしか観れない何か」さえ作れれば良い。それはもちろん難しいことだけど、深夜帯に放送されている実験的な企画を見るにつけ可能性は無限ではないかと思ってしまう。

思い込むな。呪いにかかるな。

ルッキズムに未来はない。もはやコンプレックス商材として、一部の人々に買われるだけだ。

それを啓蒙できるのが、本来テレビの役割であろう。テレビ業界の良識を信じたい。