エッセイは苦手だ。(ふつうエッセイ #33)

「ふつうエッセイ」と題して、毎日、何かしらのテキストを公開している。

最初は「文章書くのは得意だし、何とかなるだろう」と高を括っていたのだが、とても難しく毎日頭を抱えている。

どうしてこんなに大変なんだろう?と思っていたら、今年『取材・執筆・推敲〜書く人の教科書〜』を書いた古賀史健さんが正しく指摘をしてくれていた。

エッセイの基本を「感覚的文章」と述べた上で、

そして感覚的文章の根底には徹底した「観察」がある。
エッセイストだからといって、その人のまわりに特別な事件があふれているわけではない。感受性にすぐれた、観察者──つまりは取材者──としての日常を過ごしているからこそ、彼ら・彼女らはなにかを見つける。とても事件とは呼べない出来事に、ほかの人が見過ごしてしまうような日常の些事に、こころをうごかされる。そしてほんの数秒、あるいは一瞬かもしれないこころの揺らぎを逃すことなく、そこに的確なことばを与えていく。彼ら・彼女らにことばを与えられた些事は、多くの読者が日常のなかで経験していたはずのことだったりする。だからこそ読者は、そのエッセイに共感する。

(古賀史健(2021)『取材・執筆・推敲〜書く人の教科書〜』、ダイヤモンド社、P314〜315より引用)

つまり僕は、観察が非常に苦手なのだ。

漫然に物事を見ており、何となくやり過ごしていたわけだ。

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例えば椅子をつくるデザイナーは、椅子をあらゆる角度から検証する。脚は何本あるのか、どこにくびれがあるのか、人間の腰はどの位置に背もたれにあたり、どれくらいのくぼみが最適なのか。

椅子を作るのは簡単だが、長く使われる椅子を作るのは難しい。

そして長く使われる椅子を作るには、椅子に対する綿密な観察が欠かせない。観察なしに深い考察はありえなくて、まして「作る」行為には結びつかない。

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エッセイが面白い人は、きっと先天的に観察が得意だったり好きだったりするのではないだろうか。

後天的に、エッセイ書くのが上手くなった人などいるのだろうか。上手い人のみ、上手さのレベルを高められるのではないだろうか。

でも、少しくらい、エッセイが苦手な人がエッセイを書いても良いだろう。僕は、今日も明日も頭を抱えながら、何とかテキストを捻り出していく。そんな試行錯誤を想像しながら、読んでいただくのも一興だと思います。よろしくどうぞ!