欠点は、(ふつうエッセイ #569)

世の中ありがたいことに、僕を褒めてくれる人がいる。

昔から甘やかされて生きてきた自覚はあるのだけれど、「褒められた」という記憶はない。褒められて育ってきたはずなのだが、褒められるのが当たり前の環境で、具体的なエピソードを思い出せないのだ。(大変失礼な話だが、よくよく考えると、とても幸せなことだと思う)

社会人になると、なかなか褒められることはない。納期は守って当たり前だし、高い品質をキープして仕事するのはプロとしての責務だ。僕自身も「褒める」のは苦手で(「当たり前」だと思っちゃうから)、なかなか褒めることができない。

だから、ちょっと褒められると嬉しくなってしまう。

最近褒められたのは、「堀さんは準備が丁寧ですよね」というもの。「え?まじ??」と思って、うまく言葉を返すことができなかった。

僕の人生において、「丁寧」と評価される日がくるとは、全く思ってもいなかった。丁寧さとは程遠く、何事もさっさと終わらせたい人間で、例えば字がものすごく汚かった。丁寧に字を書くというモチベーションが湧かず、書道を習うまで、「これじゃ誰にも読んでもらえないよ」と指摘されるのが常だった。

「丁寧」という評価について、思い当たる節はある。実際、準備に時間を費やしているのは事実だからだ。

準備がとても重要だと感じたのは、ふたつの体験がある。

ひとつは、「菅付雅信の編集スパルタ塾」。1年間通い、毎回の講義のたびにプレゼンの準備(インプット)を怠らなかった。とにかくプレゼンする相手のことを徹底的に調べ、筋の良い提案をすることが求められたのだ。

もうひとつは、古賀史健さんの著書『取材・執筆・推敲』を読んだこと。いくら文章を書くのが上手くても、取材における準備が不足していたら何の意味もない。プロならば、「このライターは、相手のことを表面的にしか理解できていないな」と気付くことができる。相手の発言をただ書き写すことは簡単だ。でも、そんな記事にどんな価値があるのか。ライター自身の言葉でトランスレートしなければ、読み手には決して伝わらないのだ。そのためには相手を理解することが重要であり、それなりの準備の時間が必要なのだ。

たぶん、それが、「丁寧」という評価につながったのだろう。

自覚している通り、「丁寧」とは程遠い人生を歩んできた。だから、38歳になって「丁寧ですね」と言われるのは、ちょっと違和感を抱く。でもそれは、すごく良いことではないか。

欠点は、改善するための「伸び代」が大きい。

それは、大学受験のときに学んだような気がする。数学がずっと赤点だったけれど、とにかく苦手な数学を勉強するようになって、数学の点数が飛躍的に伸び、全体点を押し上げていった。数学は武器とはいわないけれど、徳喜科目を5点伸ばすよりも、数学を50点伸ばす方が簡単だった。

いま、世の中では「得意を伸ばそう」「ゼネラリストになるな」といった言説の方が主流である。でも、僕はなかなかそういう考えには至れない。欠点は、改善すると点数が上がるわけではない。改善するためのプロセスを通じて、新たな気付きを得ることができるのだ。

もちろん、ギフテッドな才能を有する人は、どんどん才能を伸ばす努力をした方が良い。武器を磨きに磨いて、唯一無二の価値をつくったら良いと思う。

だけど、そうではない人間もいる。そうではない人間の方が多い気がする。

欠点は、直した方が楽になるよ。そう言いたいけれど、それは余計なお世話というものだ。伸び代、大きいと思うんだけどな。