特別な空腹(ふつうエッセイ #311)

さほどお腹が空いていたわけではないのに「あ、いま特別な空腹だ!」と感じた。疲れているのだろう、今日は家に帰ったら、ゆっくり身体を休めようと思う。

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むかし、「『良い意味で』といえば、どんな発言でもアリになる」という法則を発見したことがある。

「君のつくった料理ってマズいよね」なんて言ったら、相手は必ず怒るだろう。

だけど「君のつくった料理ってマズいよね、良い意味で」といえば、その怒りはいくらか減じられる。そこにどんな意味があるのかは別にして。相手の顔色が曇ってきたら、急いで補足加すれば良い。そうすれば大抵のことは許されるのだ、良い意味で。(世の中そんな単純ではなく、「良い意味で」を乱発していたら何度か痛い目に遭いました。良い意味で)

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そんな小賢しい表現に比べれば、空腹という言葉は純粋無垢である。

空腹とは、ポジティブもネガティブも感じさせない。もちろん状況によるけれど、空腹という状態が、周りの幸せを誘引するなんてことも起こったりするのだ。

おばあちゃんは、僕に腹一杯ごはんを食べさせたい人だった。

僕が「お腹すいた」というと、顔を綻ばせて料理を運んでくる。美味しさよりも、腹一杯食べさせたいという思い。「おかわり」と言ってほしい顔をしている。万が一おかわりを「固辞」すると、とても残念な顔をするので、慌てて「やっぱり、もう一杯もらおうかな!」と告げるという感じだ。

おばあちゃんにとって、子どもの空腹とは「特別」なものなのかもしれない。お腹いっぱい食べさせてやりたい。というか、子どもはいつだって腹を空かせているものだという思い込み。食べ物が十分なかった時代を経験していたのだから、そういった「ひもじさ」を味わわせたくないのだろう。

子どもの仕事は、遊ぶこと。

そして、ご飯を腹一杯食べることも、僕は加えたいと思う。

習い事とか、英語の勉強とかは、もうちょっと成長したらやれば良い。「特別な空腹」は、そんなことを思い出させてくれるのだ。