耳をすませば(ふつうエッセイ #535)

昨年末、5年ほど使用していたウェアラブルネックスピーカーを紛失した。

どこで落としたのかさっぱり分からないが、気付けばバッグの中にも、肩にもかかっていない。そこそこ高額だったので、紛失が明らかになったときはガッカリしてしまった。

僕は自転車で通勤しているのだが、このネックスピーカーでラジオを聴くのが楽しみだった。(耳を塞ぐイヤホンは法律で禁止されているが、ネックスピーカーは問題ない)

その楽しみが失われ、行き帰りでラジオが聴けないことを、しばらくは悔やんでいた。

だが、その生活にもしばらく慣れると、通勤が「思考する時間」へと早変わりした。頭の中でタスクの整理をしたり、プレゼンの練習をしたり。「こういう事業を3年以内にしたいな」とか、色々想像が膨らんでいく。

手持ち無沙汰ならぬ、耳無沙汰。

なるほど、耳が空くというのは、こういった自由な発想が可能になっていくのだ。耳をすませると、思考も澄み渡っていく。

いまは、紛失したことにそれほど後悔していない。「もの」の代わりに、自由を獲得したような実感があるからだ。