バランスボールがあった生活(ふつうエッセイ #504)

2007年、僕は新入社員としてIT企業に就職した。

その会社は、僕が就職する直前に大手企業の傘下に入ったため、良い意味でも悪い意味でもベンチャー感はなかったけれど、かけがえのない経験ができて良かったと思っている。(これは本当に……。でもエッセイの冒頭でそんな型通りなことを書かなくても良いですよね……)

当時、ベンチャー界隈で流行っていたものといえば、バランスボールだ。当時は働き方改革なんて言葉はなく、「ベンチャーへの就職=基本的には終電近くまで働く」という長時間労働が普通だった。ということは、社員はたいてい若かったけれど、多くが健康面に何らかの問題を抱えていることが多かった。

僕も例外でなく、それなりにハードな生活だった。でも、社会人1年目からランニングを趣味にできたのは幸いだった。帰宅後に走り、身体的にも精神的にもリフレッシュできたからだ。そういった意味で意識は高く、アメリカのGoogleなどの社員が、オフィスでバランスボールに座っていると知り「おれも!バランスボールを!」という機運が高まっていたのだ。

ただ、僕の思いは同僚に一蹴され、オフィスでバランスボールに座るというスタイルは叶わなかった。

だから僕は、自宅にバランスボールを導入することに決めた。バランスボールに座ってPC作業をするも良し、作業に飽きたらストレッチをするも良し、読書だってバランスボールに座れば良い感じだ。

でも、バランスボールって意外に飽きるのだ。

飽きてくると、途端にバランスボールが邪魔に思えてくる。ひとり暮らし、横浜市内のワンルームにバランスボールは、明らかにバランスが悪かった。おまけにバランスボールは、ちょっとずつ空気が抜けていく。空気入れが常備されていたわけではなかったので、残念ながら徐々にストレッチにも使えなくなっていく。(そもそもストレッチが好きでなかったので、ストレッチ目的で使ったのは数回程度だったが)

そんなこんな、いまでは、バランスボールのある生活とは縁遠い。

でも不思議なことに、ときどきバランスボールを見ると「ああ、ほしい!」という気持ちになってしまう。どうせ邪魔なのに、どうせストレッチなんかしないのに、いまだって大して広い部屋に住んでいないのに。いったいどうしたことだろうか。

バランスボールは、実にバランスしているように見える。

丸いからだ。

どこかにしか出っ張ったり、滑らかさを失っていたりしているときに、バランスボールの丸さは、実に丸く、完璧な球体であるようにみえる。

バランスボールのない生活は、バランスボールのあった生活よりも広々している。しかしその広々としたスペースとは、心にぽっかりと空いた「穴」なのかもしれない。

こうして人間は、ちょっとずつ欠落を抱えながら生きているのだ。た、たぶん。