noteに書かないことを(ふつうエッセイ #464)

気付けば、1年半以上、毎日noteを書いている。

数えてみると、622本だ。僕は622回更新ボタンを押していることになる。それはつまり、僕のテキストが、622回分、衆目に晒されるということだ。

時々、「こんな文章を公開して良いのか」と逡巡することもある。noteは自分のためのトレーニングだと割り切っているので、何とか正気を保てている。が、自分の思考を正しく言語化できるケースの方が少なく、隣の芝(他人の文章)を読んでは、その才気に嫉妬している。

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noteに追いつけ追い越せとばかりに、2021年9月から、本エッセイも毎日更新を続けている。今回で464回。1年と99日目。こちらも、なかなか遠くまで来たものだと感慨深い。

こちらの執筆スペースも、僕にとっては必要不可欠な場所となっている。

ひと言で言い表すと、「noteで書けないことも書ける」場であるということだ。同じ執筆空間のはずなのに、noteよりも、このエッセイの方が伸び伸びと書けることが多い。だからといってコンプライアンスに抵触するような言説をするつもりはないが、なんというか、トーン&マナーのようなもので、noteのトンマナが時々窮屈に感じることがあるのだ。

noteはリアクションがあれば、誰が読んでいるのか分かる。

しかしふつうエッセイは、SNSにシェアでもしてくれない限り、誰が読んでいるか分からない。匿名性が高い。でも、それで良いと思っている。

書きたいことを、書けばいい。

その原点に立ち返ることができる場所。僕もそうだし、他の書き手の皆さんにとっても、そうであってほしいと願う。

僕が望むプラットフォームの一端として、何かヒントが垣間見える。ふつうごとの「ふつう」が示唆する世界とは、僕の手をどんどん離れたところで広がっている。ふつうごとを運営するとは、その世界にアクセスすることに他ならない。