雑草を刈る(ふつうエッセイ #284)

昨日に続き、息子のこと。

保育園に行く道すがら、アブラムシが群がっている雑草のエリアがあった。雑草にとってはたまったものではないが、息子にとっては興味の対象で。その周辺一帯は、雑草が生えっぱなしのエリアで、アリやダンゴムシなどの昆虫も多く、豊かな生態系が成立していた。

だが、さすが都内ということで、そのエリアもあっという間に除草作業が行なわれてしまった。ぶいーんと機械が駆使され、ぼうぼうに伸びていた雑草は半日足らずで刈られてしまった。

当然、そこにあったアブラムシも姿を消した。アリやダンゴムシは行き来しているが、なんとなく所在無げに映る。

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史実を基にしたドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム」では、郊外に移り住んだ夫婦が「理想の農場」をつくるために、とことんオーガニックな農業に携わる話だ。巨大な農地(東京ドーム約17個分)で、大自然の脅威にさらされながら、そこにいる動物や植物との共生を試みる。

「害」だと見做されるものも、「なにか意図があって、彼らはそこにいるのだ」と信じ、駆除しない。短期的には、それらが作物を食い荒らしてしまうのだが、別の観点からみると別の「害」をほどよく取り除いてくれる存在だったりする。

想像いただけると思うが、こういったやり方で「理想の農場」を作るには、1〜2年といった短期間では無理な話だ。何度も絶望し、自分たちのやり方を疑いながらも、少しずつ成果をあげていく。

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「ビッグ・リトル・ファーム」で描かれているプロセスは、農業に限るものではないのではないか。

現在NHKで放送されている大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、大泉洋さん演じる源頼朝が、次々と周囲の人間を破滅に追いやっていく。実弟・義経の最期のシーンは「やむをえず」といった描写がされているが、史実はもっとシビアで残酷なはずだ。「自分が生きているうちに権力を握りたい」という頼朝の欲望が透けて見える。

権力を握りたい、という欲望の在処を僕は理解できないけれど、日本というそこそこ広い国土を有する国において、頂点への道のりは「かなり大変だ」ろうとは思う。対話が全く機能しない時代において、自分や家族を守るための暴力行使は致し方ない側面もあろう。

ただその「致し方ない」事情ゆえに、ロングスパンで物事を捉えるというアティチュードを失ったのは事実だ。端的な言い方をすれば、「面倒くさいやつがいたら殺せばいい」ということだ。

駆除、排除といった考え方は、全体最適の上では必要だと思われているが、果たして本当だろうか。

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雑草は、綺麗さっぱりなくなった。

にょきにょきと隆盛を極めていた草たちは、人間の手によって葬り去られてしまった。綺麗になった土地に、何かしら便利なものが新設されるのかもしれない。近隣の住民にとっては、雑草だらけのエリアよりもハッピーではあろう。

ただ、僕は「あの景色」を忘れたくはない。

息子と一緒にアブラムシを観察した日のことを、アリの行列に興奮した日のことを。

東京はとことんクリーンになっていく。地価は上がり続け、収入面で「住めない」と諦める人たちは、東京の外へ出ていく。人間さえも排除するような街を、誰が望むのだろうか。

なにかが、決定的に間違っていると僕は思ってしまうのだ。