微笑みは、高倉健のように。(ふつうエッセイ #397)

「微笑む」と「笑う」は、違う。

英語でいうと、smileが微笑みで、laughが笑うだ。上品に笑うか、あははと声に出して笑うか。どんなふうに笑うかの違いであるとずっと教えられてきた。

だけど最近、このふたつは根本的に違うものではないかと思うようになった。「笑う」というのは、文字通り何かの事象に対するリアクションだけど、微笑むというのは生き方そのものなのだ。

どういうことか。

微笑みが特徴の人は、常に何かについて「面白い」と思って微笑みを携えているわけではない。常に微笑みを携えようという意思を、口の端に込めている。それは幼少期における周囲の影響かもしれないし、大人になってから主体的に決めた行為かもしれない。いずれにせよ、何かの事象に対するリアクションでないことは確かだ。

かつて僕が新入社員だった頃、同じフロアに微笑みが特徴的な女性がいた。恋していたというのもおこがましく、ただただ高嶺の花のような存在だった彼女だったけれど、目が合うと優しく微笑みかけてくれた。声を掛けてくれたこともある。優しい人だった。

偶然、最寄駅まで一緒だったタイミングがある。僕は嬉しい気持ちを抑えきれない感じだったけれど、彼女はいつもと変わらずクールだった。僕が話すしょーもない冗談に時々笑ってくれたけれど、だいたいは微笑みの表情を崩さないでいてくれた。

ほんの数分だったと思う。分かれた後で、思い立って僕はトイレに向かった。鏡をみると、なんと両方の鼻の穴から毛が出ているではないか!現在のコロナ禍のようにマスクをしているわけではない、僕の鼻毛は、彼女の目にも明らかに映っていたはずだ。

でも、と僕は思う。

あのときは「あちゃー」と思ったけれど、僕の鼻毛は、きっと最初から伸びていたわけではない。彼女の微笑みが、微笑みという生き方が、僕の鼻毛を伸ばしたに違いない。

微笑みとは、自らアクションをしない。微笑みという対象に対して、周りが変わっていくだけだ。高倉健さんと同じだ。不器用で寡黙な高倉健という生き方によって、周りが影響を受け続けてきたのだ。高倉健さんは、四畳半の部屋で、静かにお茶を啜っていただけだ。

微笑みは、高倉健のように。Smile is as Ken Takakura.

悪くないキャッチコピーだ。著作権フリーで、広めていきたい。