忙しさはいたるところにある(ふつうエッセイ #402)

知人が薦めていた『WHITE SPACE ホワイトスペース〜仕事も人生もうまくいく空白時間術〜』という本を読んでいる。

生産性や効率性を求めて、ついつい僕たちは予定を詰め込みすぎてしまう。気が付けばToDoで身動きが取れなくなり、やがて疲弊する。それを防ぐために、「空白(ホワイトスペース)」の時間が必要だという本だ。

書いてあることは至極当たり前のことがあり、特段新しくはない。「ついつい」と書いたけれど、こういったことを本当に、見事に、ついつい忘れてしまうものだ。僕もここ最近、ToDoをいかに処理するかに執着していた感もあるので、改めて、余裕や余白を持ちながら生活していこうと思った。

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本の中に、現代人の忙しさを強調するエピソードがあった。その一節に「忙しさはいたるところにある」と記されていた。現代人は、知らず知らず、仕事やプライベートを本能的に忙しくさせてしまうらしい。そのきっかけのようなものが、常に近くにあるというのだ。

忙しさはいたるところにある。

村上春樹さんの小説にも出てきそうな言葉だ。

忙しさはいたるところにある。僕はニューヨークの地下鉄で、買ったばかりのミックスサンドウィッチを食べる。キュウリの歯応えがない。やれやれ、店長はまた仕入れ先を変えたのだろうか。駅に停まるたびに、忙しなく乗客が乗降する。彼らはiPadを広げていたり、スマートフォンでショートメッセージを打っていたりする。そして例外なく、降りるときに、「あ、着いてしまったか」という顔をして、早足でこの場を離れていくのだ。忙しさはいたるところにある。

なんて。

でも考えてみれば、「忙しさは」の主語の部分は、何に代替しても通用するのではないか。

りんごはいたるところにある。
メディアと広告はいたるところにある。
政治不信はいたるところにある。
マクドナルドはいたるところにある。
フランツ・カフカはいたるところにある。
極右政党はいたるところにある。
国葬はいたるところにある。

なんて。

何だか、元々の意図からだいぶ外れたところに着地しそうだが、「〜はいたるところにある」は、あながち間違っていなさそうなのは分かってもらえただろうか。

ただ、万能というのは、何の役にも立たないことと同義である。昔、友人がとある雑誌の音楽評を読んで、「これ、アーティスト名をAじゃなくてBにしても意味が通じるよね」と憤っていた。ある意味で、万能な文章だったといえる。しかし、そんな文章に何の意味があるというのだろう。

万能な表現は、その瞬間は誰かの心に刺さるかもしれない。まるで針のように。

針は、人間に刺すこともできる。だが、誰も自分の肌に刺そうとは思わない。つまり、実質的には誰にも刺さらないのだ。

針もまた、いたるところにある。いたるところにあるものは、要注意だ。