俳優とライター(ふつうエッセイ #383)

昨日に続き、書くことについて。

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映画に関するWebサイトを作るにあたり、映画を観る機会がかなり増えた。ずっと映画に関するコンプレックスを抱いてきたが、総合芸術である映画から学ぶことは本当に多く、日々勉強である。

色々な要素が絡み合い、構成されている映画。言わずもがな、俳優の演技も重要なファクターを担っている。彼らの演技が、映画の表情を決める。演技が上手ければ良いわけではない。映画にマッチしていないと意味がない。その辺りのバランスについても、ぼんやりと見えるようになった。

そんな中でふと思ったのは、俳優とライターという職業は似ているのではないか?ということだ。俳優は、全く別の人格へと憑依して演技をする。演じる人物に一切の共感がなかったとしても、その人の人生に入り込まなければならない。普段まっとうに生きる人間が、仕事とはいえ連続殺人犯にもならなければならないなんて、なかなかヘビーな体験だろうなとも思う。

ライターも同様だ。インタビュイーに憑依するような感覚で執筆に臨み、その人が考えていることを推測しながらテキストを綴っていく。ライターにもよるかもしれないが、「語られなかった」言葉について思いを馳せるのも、ライターにとって重要な素質のひとつだ。語られなかった言葉を、原稿で語らせるかどうかの判断は、(少なくとも初稿の段階では)ライターが決める。その善し悪しはさておき、その判断はインタビュイーに憑依できていなければ難しいだろう。

といった具合だ。

では、どうすれば憑依できるのか。いやそもそも憑依なんてする必要がないのか。

その辺りの塩梅は難しい。ベテランにもなれば、憑依など面倒なことをしなくとも、求められるアウトプットができるようになるのかもしれない。現実と虚構にきっちりと線を引ければ、憑依の際の痛みや苦しみを味わわなくても良いのかもしれない。

何が正しいかは分からない。ただ、俳優とライターの共通点は間違いなく存在する。そのあり方は、人によって違うという、それはもう当たり前のことなのだけれども。