ドアは開けたままで。(ふつうエッセイ #518)

大学のときにお世話になった先輩がいる。

サークルの活動場所まで、いつも車で送り迎えしてくれていた。当時はあまり車に興味がなかったので、どんな車種だったか記憶にないが、確か車の色は白だった気がする。面倒見の良い人だった。変わり者が多いサークルだったけれど、その先輩はわりと普通というか、一般的な物の見方をしていた人だった。

だが、その先輩が話していたことで心底驚いたことがある。

「僕の住んでいるアパートでは、誰も鍵をかけていない。だから隣人同士で部屋を行き来することがあるんだ」

まじか。

田舎では鍵を開けない、隣人の出入りは自由だといった話をたまに聞く。

Disney+で配信中の「ガンニバル」でも、そんな状況が出てくる。田舎の村に家族で駐在することになった主人公が、セキュリティ保持のために囲いを作ろうとしていたとき。「それは止めた方が良いな」と村人に止められたのだ。「おめえたちが、わしらのことを信頼している証」として、いまのまま、つまり囲いを作るのを止めるよう勧めたのだ(それは勧めたというよりも、実質的な指示・命令だったが)。

話は傍に逸れたが、とりあえずというか、少なくとも、僕の住んでいたエリアはみんな鍵をしていた。

だから、その先輩(が属するアパート)において、どんな背景や事情があったのかは謎である。

でも思うのだけど、「開かれている」というのは、つまり、そういうことなのではないだろうか。開かれているから、いつでも入ることができる。接続したい、常に接続していたいという意思の顕れなのだ。

信頼しているかどうかは別にして、そこには間違いなく意思がある。同じように、ドアが閉じられているということにも意思がある。ドアは、それぞれにおいて意思が込められている「メディア」のようなものなのだ。

我が家でも、廊下と部屋を隔てるドアを、つい開けっぱなしにしてしまうことがある。冬は、すきま風が入って寒いのだが、なかなかドアを閉じるという運用が徹底されない。

それは「うっかり」ではなく、接続していたいという意思なのかもしれない。あちらの部屋と、こちらの部屋を、分け隔てたくないという思い。

そう考えると、開けっぱなしのドアにも、愛なるものが含まれているのかもしれない。なかなか愛おしいじゃないか。……いや、そうはいっても冬のすきま風は寒い。背に腹はかえられないから、僕はそっとドアを閉めるのである。